インドネシア国立美術館:20世紀の現代アートを集めた、人々の感性を育てる美術館

首都ジャカルタにあるインドネシア国立美術館。1999年の開館以来、作品を通してインドネシアの人々の感性を刺激し、創造性を高める役割を担ってきました。インドネシアを中心に世界中から集められた現代アートのコレクションを目当てに、国内外から多くの人が足を運んでいます。今回はそんなインドネシア国立美術館の歴史と所蔵品について、詳しく解説していきます。

■インドネシア国立美術館とは

インドネシア国立美術館は、インドネシアの首都ジャカルタの中部に位置する美術館です。文化機関、教育機関として機能しています。近くには国立記念碑や国立博物館、国立図書館、大統領官邸、モスク、教会があり、観光コースに組み込みやすい場所に位置しています。

美術館は現在、いくつかの建物の複合施設になっています。本館は元々、オランダ領東インド諸島の植民地時代において、1817年に住居として建てられた歴史ある建物です。1900年にはオランダの牧師らの下、教育機関として改修・増設され、住居部分は女子寮として使用されます。1945年のインドネシア独立を経て、インドネシア政府は1961年にオランダの学生と教師を追放し、学校は廃止。施設はインドネシア共和国の教育文化省に引き継がれました。その後、青年デモ隊や軍に使用されるなどしましたが、1981年には教育文化省に返還されました。

1999年にインドネシア国立美術館として正式に発足以来、インドネシアの人々の芸術への関心と創造性を高め、伝統文化を大切にしてもらうことを目的に、美術品の収集と保護、展示を行っています。展示品は主に、インドネシアを初め世界中から集めた現代アート。洗練された展示スペース内には基本的に規制のロープなどはないため、作品を間近で鑑賞することができます。展示スペース以外にも、セミナールームや図書館などの施設も充実しており、ラボ内では作品の調査や研究、修復作業が行われています。

■インドネシア国立美術館の所蔵品

インドネシア人アーティストの作品を中心に、世界中から集められた20世紀以降のアートがコレクションされています。絵画、スケッチ、グラフィック、彫刻、陶器、写真、工芸品など、作品数はおよそ1800点弱です。

・《《The Beggar》1974年アファンディ

本作品は、インドネシアを代表する近代画家アファンディ(Affandi)によって描かれた油彩画です。

テーマとしてThe Beggar(こじき)の姿が描かれており、アファンディの個性的なスタイルが強く現れています。通行人の慈善を待ちながら座っているこじきの虚弱な姿を描いており、茶や黒、そして背景の黄緑色など全体の色使いからは悲壮的なイメージを感じる一方で、強いタッチによる荒々しいテクスチャや動的な構成からは生命力と活力を感じます。アファンディの厳しい人生経験と骨の折れるような努力が表現されているともとることができるのではないでしょうか。

アファンディは1907年にインドネシアのジャワ島、チルボンに生まれました。両親は彼が医師になることを望んでいましたが、絵を描くことに興味を持ったアファンディは画家としての道を選びます。ポスターや看板の絵描きとして活動しつつ、自分の表現したいものと独自のスタイルを模索。辿り着いたのは、筆を使わずに絵の具のチューブから直接キャンバスに書き込む手法、筆やブラシの代わりに手を使って描く手法でした。独自の手法で描かれたアファンディの絵は、分厚い絵の具の力強いタッチが特徴です。彼の芸術的スタイルは1949年から1968年にかけて経験した、インド、ヨーロッパ、米国、ブラジルなどといった海外での修行の中で形成されました。

1950年代以降、アファンディの作品はインドネシア国内外で注目され、各国の展覧会にも参加し、様々な賞を受賞します。1990年に彼は亡くなりましたが、現在でも世界中で人気のある画家の一人です。インドネシアには、彼の作品が展示された「アファンディ美術館」も作られており、こちらも人気のスポットとなっています。

・《The Dusk》1987年スジャーナ・カートン

本作品はインドネシアの画家、スジャーナ・カートン(Sudjana Kerton)によって描かれた油彩画です。

アヒルの群れに餌を与える遊牧民の背景には、地平線に沈む深紅の太陽が描かれ、生命の重さと儚さが表現されています。タイトルでもある夕暮れの中で沈みゆく太陽は、まるで生き物たちに別れを告げているかのようです。本作品はカートンの晩年の作品で、抽象的な表現主義から脱した独自のスタイルで表現されています。

スジャーナ・カートンは1922年、インドネシア西ジャワ州のバンドンで生まれました。オランダ植民地時代からインドネシア共和国への移行の最中に生き、インドネシア革命期で最も独創的で積極的な発言力を持つ芸術家として認知されていました。若い頃からインドネシア人とオランダ人の両方と交流を持ち、インドネシア独立後は芸術ジャーナリストとして活動します。

1950年代初めには、オランダとフランスを含むヨーロッパの文化で芸術と生活を研究、また、メキシコを訪れてメキシコ革命中のアーティストの研究を行いました。結婚しニューヨーク市に定住しますが、1976年にインドネシアに戻り、晩年を過ごしました。

・《Portrait of Adolphe Jean Phillipe Hubert Desire Bosch》1867年ラデン・サレー

本作品は19世紀に活躍した近代画家、ラデン・サレー(Raden Saleh)による油彩画です。

オランダ植民地時代に、政府の依頼で有権者であるオランダの総督の肖像画を描いたものです。サレーは珍しいジャワ原住民の画家で、並外れた才能を持ち、初めて西洋で美術教育を受けたインドネシア人画家と言われていています。

(Public Domain /‘Portrait of Raden Saleh (1811-1880), painter’by Friedrich Carl Albert Schreuel. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ラデン・サレーは1807年、当時オランダ領だったインドネシアジャワ島のスマランに貴族の息子として生まれました。オランダ王ウィレム1世の紹介で、博物学標本収集のために東南アジアに派遣されたベルギー生まれの画家、アントワーヌ・パヤンと知り合い、絵を学びます。その後、オランダの植民地政府から奨学金を受け、オランダへ渡り美術教育を受けました。教育を終え各国の王室を訪れたサレーは、「東洋の王子」という経歴から人々の関心を引き、その技術を認められ肖像画家として注文を得ます。ロマン主義を通して東洋のイメージを表現する彼の芸術作品は、ヨーロッパの貴族から評価を受け、名声を得ました。

1851年にインドネシアに戻り、ジョグジャカルタの有力な一族の娘と結婚。植民地政府の学芸員として働き、インドネシアでも肖像画や歴史画を多く描きました。1876年から2年間、再びヨーロッパを旅し、1880年にジャワのボゴールで亡くなりました。

■おわりに

インドネシア国立美術館では、インドネシアが誇る自国の画家の作品を中心に、世界の美術を鑑賞することができます。インドネシアに訪れた際には、ぜひ足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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