
ニールス・フィンセン:近代光線療法の父と呼ばれた男
ニールス・フィンセンはデンマーク・フェロー諸島の内科医、科学者です。彼は光のエネルギーに殺菌効果や治癒能力がある事を発見し、それを応用して当時ヨーロッパで不治の病と恐れられていた尋常性狼瘡(皮膚結核)の光線治療法を確立させました。それらの功績により、1903年に「ノーベル生理学・医学賞」を受賞しています。

◆生年月日、生まれた町、生まれた町の概略
フィンセンは1860年12月15日、デンマーク・フェロー諸島のトースハウンに誕生しました。トースハウンは神話にも登場する豊かな歴史と自然が共存する美しい町です。かつては天然痘の流行により島民が全滅するという騒ぎに見舞われた島ですが、今では港湾都市として栄え、町も活気で賑わっています。
◆幼少期、学生時代

フィンセンの父は子供に多大な期待を寄せており、質の高い教育を受けさせる為に長男を首都デンマークの寄宿学校へと入学させました。フィンセンも兄に倣い同じパブリックスクールへ進学することとなります。彼は慣れない都会生活の中で、四苦八苦しながら勉学に勤しみましたが、学校側から能力不足をしてきされやむなく退学をすることになってしまいました。決して生活態度や勉学に対する姿勢が悪かったわけではありませんが、大自然の中で生まれ育った子供には都会の生活は窮屈で馴染むことが難しかったようです。

しかし、その後入学した地元の学校は水があったようで、メキメキと成績を上げ、1882年にコペンハーゲン大学医学部への入学を果たしました。そこで彼は医学を学び、優秀な成績で卒業し、最終的には自身の研究に打ち込み1896年にフィンセン研究所が設立され所長として就任することになります。
◆受賞に至るまでの逸話など
フィンセンの研究によって治療が可能となった尋常性狼瘡(皮膚結核)は当時ヨーロッパに蔓延しており、死の病として大変恐れられていました。結核菌に感染する事で皮膚に病変が生じ、赤みを帯びただれる症状を引き起こします。皮膚以外の部分に発生した結核菌が血行性またはリンパ行性によって運ばれ、皮膚部分に到達すると発症すると言われており、特に顔や首にそれらが浮き彫りになる事から、発症すると大きく見た目が損なわれる事にもなります。
フィンセンが研究に打ち込むきっかけとなったのは、自身も病に犯されていた故でした。腹水が溜まり、徐々に臓器の機能が弱っていた彼だからこそ、新たな治療法を確立させ、人々に役立たせたいという思いが人一倍強かったのです。
ある時、フィンセンは太陽の下に長時間身を置いていたものの方が健康状態は良くなるということに気付きました。そこで彼は日光から受ける影響に着目し、研究を進めていくことにします。
当時の日光に対する考え方は、炎症を起こす、日焼けによって皮膚に害を及ぼす作用があるなど、どちらかと言うと有害というイメージが強く、ましてやそれを治療に応用出来るなどと言う発想は存在していませんでした。事実、当時の治療法として天然痘には日光を全く浴びせてはならないというものが主流でした。

しかし、フィンセンはそれに反して天然痘には日光を浴びせた方が良いと提唱しました。太陽光線には培養中の菌を殺菌する能力があると発表したのです。

彼は日光を調節して照射することができるフィンセン灯を開発し、実際に重度の天然痘患者に対して治療を成功することによってその名を世界にとどろかせることとなりました。
それらの功績により「ノーベル生理学・医学賞」を受賞したフィンセンでしたが、晩年彼は心臓病の兆候があり、車椅子が欠かせない生活を送っていました。家族や友人達のサポートを受け、最後まで精力的に研究を続けていましたが、1904年9月24日コペンハーゲンにて43歳という若さでこの世を去りました。彼の発見と名誉を称え、フィンセン研究所は残される事となり、現在はコペンハーゲン大学病院と合併されて癌研究所として利用されています。
○まとめ
日光という未知の物質に着目し、尋常性狼瘡(皮膚結核)を治療することができるフィンセン灯を開発するまでに至ったニールス・フィンセン。彼の発見によって救われた命は数多く、その功績は計り知れないものと言えるでしょう。彼の没後には抗生物質が到来し、日光による治療法が使用されることは無くなってしまいましたが、現在でもその技術は放射線療法に受け継がれ使用されています。
※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。