ノーベル生理学・医学賞1967年ラグナー・グラニト:目に光が取り込まれたときに起こる電気信号を解明した科学者

ラグナー・グラニトは、フィンランド出身の科学者です。1967年に『目に入る光と電気信号の関係性に対する研究』でノーベル生理学・医学賞を受賞しました。同じく視覚に関する研究を行ったハルダン・ケファー・ハートラインとジョージ・ワルドも同時受賞しています。そんなラグナー・グラニトの受賞までの道のりについて詳しく解説していきます。

◆生年月日、生まれた町、生まれた町の概略

ラグナー・グラニトは、1900年10月30日にフィンランドのヘルシンキで生まれました。

ヘルシンキはフィンランドの首都で、同国の最大都市です。フィンランド湾に面した湾岸都市でもあり、政治・教育・金融・文化・研究といった重要施設が集まっています。人口100万人を超える都市としては世界最北の大都市圏で、ヨーロッパでも最北の首都です。

◆幼少期、学生時代

郊外で育ったラグナー・グラニトは、中等教育を受けるにあたりヘルシンキ中心部に移りました。そして、ヘルシンキ大学医学部へ進学し、1927年に卒業を果たします。

◆受賞に至るまでの逸話など

大学卒業後は、アメリカ・ペンシルベニア大学の研究室へ移りました。その後、イギリス・オックスフォード大学のチャールズ・シェリントンの元で学びを深めます。チャールズ・スコット・シェリントンは生理学者で、1932年に『神経細胞の機能に関する発見』でノーベル生理学・医学賞を受賞した人物です。

フィンランドに帰国後の1937年にはヘルシンキ大学医学部の生理学教授に任命され、さらに研究を続けました。しかし、1939年の末に勃発した冬の戦争により、フィンランドはソビエト連邦の大規模攻撃の標的となります。そのため、グラニトはスウェーデンの首都ストックホルムへ避難しました。

第二次世界大戦中でも安心して研究できる環境を求めたグラニトは、フィンランドへは戻らず避難先のストックホルムへ移住する決心をしました。1940年の夏にはスウェーデンの市民権を得て帰化し、医科大学であるカロリンスカ研究所での勤務をスタートします。

グラニトは1945年まで続いたフィンランドの戦争へは参加しませんでしたが、スウェーデンに帰化したあともフィンランドの国籍をもち続けています。モスクワ休戦協定により戦争が集結するとフィンランドとスウェーデンの両方に家を持ち、行き来していました。グラニト本人も「生涯を通じてフィンランドへの愛国心があった」と語っています。

カロリンスカ研究所では1946年に神経生理学部門の教授に就任し、1967年の引退まで勤め上げました。

グラニトが行った研究の中で最も有名なのが、1930年代から1950年代に行われた『視覚に関する研究』です。人間の目が認識する画像は、眼球の裏側の網膜にある細胞が大きな役割を担っています。この細胞は光に敏感で、人間の目を通して光を取り込むことで機能。光を取り込んだ細胞内で化学信号と電気信号の変換が行われることにより、視覚的な印象を読み取ることが可能となります。

実験用に繊細な電極を作ったグラニトは、網膜の細胞から流れる電気信号の研究を行いました。その結果、3種類の感光性錐体(色覚を可能にする細胞)が存在しており、それぞれの錐体が異なる波長の光に反応することを実証します。この研究結果は1947年に出版した著書「感覚機構の網膜」にまとめられ、網膜電気生理学の基礎となりました。

この『視覚に関する研究』により、グラニトは1967年度のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。同じく人間の視覚に関する研究を行ったハルダン・ケファー・ハートラインとジョージ・ワルドも同時受賞しています。グラニトは受賞が決定すると「私の受賞したノーベル賞は、フィンランドとスウェーデンに半分ずつ権利がある」とコメントしました。

他に行った研究としては、『運動の制御システムについての研究』があります。グラニトは筋肉感覚器官の役割を解明することを目指し、特に筋紡錘・腱器官に注目しました。この研究により、筋紡錘・腱器官が筋肉の作用を調整することで、人間を動かす神経プロセスの決定を助けることが分かりました。

◆終わりに

ラグナー・グラニトは、人間の網膜細胞の働きを解明した科学者です。彼の生きた時代は戦争と隣り合わせでしたが、戦争に参加することは無く研究に専念したいという強い意思で行動する人物でした。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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