ノーベル生理学・医学賞 1990年 エドワード・ドナル・トーマス:世界で最初の骨髄移植を行い「骨髄移植の父」と呼ばれた医師

エドワード・ドナル・トーマスは、アメリカ出身の内科医・免疫学者です。1990年に『人間の病気治療における臓器および細胞移植の研究』でノーベル生理学・医学賞を受賞しました。そんなトーマスの受賞までの道のりについて解説していきます。

◆エドワード・ドナル・トーマスの生まれた町

エドワード・ドナル・トーマスは、1920年3月15日にアメリカ合衆国テキサス州のマートで生まれました。
マートはマクレナン郡の東に位置し、南北戦争の直後から人が定住するようになりました。しばしば辺境の地と呼ばれ、現在では住人のほとんどが近隣の町ウェーコなどに通勤しているそうです。
ウェーコは、マクレナン郡の郡庁所在地です。この土地にはもともと「ウェーコ」「ヒューコ」と呼ばれるウィチタ族のネイティブ・アメリカンが住んでいました。1825年に入植者のスティーブン・オースティンがウィチタ族の提示する条件を飲みこの土地を手に入れ、町が設立されました。

1870年にウェーコ吊り橋が建設されると、移民達の馬車の往来が増え町はさらに成長しました。また南北戦争が終わった頃くらいから、ブラゾス渓谷とボスク渓谷で綿花が栽培されるようになり、その生産量はアメリカで最大です。その後は世界恐慌や竜巻などの被害を受け、長期的に経済が落ち込みますが、現在は商業と住宅地の多目的開発などで経済の活性化に務めています。

◆幼少期、学生時代

トーマスの父は開業医をしていました。その当時、村に医師は彼の父親のみだったため馬に乗って各家庭を回診し薬を運ぶ様子を見て育ちました。

高校での勉強の成績はあまり優秀ではなかったものの、大学はテキサス大学オースティン校へ入学します。大学では化学と化学工学の研究に夢中になり、1943年に修士号まで取得しました。
大学生活が終わりに近づいた頃、学生寮で妻となるドロシー・マーティンに出会います。ジャーナリストになるための勉強をしていたドロシーですが、1943年にトーマスがハーバード大学医学部に入学したとき、夫を支えるためにジャーナリストの夢を断念して研究に参加するようになりました。その後、ドロシーは資料集めや論文執筆、実験技術などあらゆる面でトーマスと共に働きます。
トーマスは1946年にハーバード大学医学部で博士号を取得し、インターンシップに参加。その後、ピーター・ベント・ブリガム病院に住み込みで働きます。

◆受賞に至るまで

研修医の期間と2年間の軍隊勤務を終え、いくつかの大学にも勤務した後、ハーバード大学医学部で病理学者シドニー・ファーバーと出会います。ファーバーは、白血病をはじめとした病気に対する化学療法の研究で知られた人物です。トーマスは彼の研究室に参加し、葉酸拮抗薬で寛解状態となった急性リンパ芽球性白血病の患者の様子を観察し、骨髄機能を刺激する要因について考えるようになりました。
1955年からは、ニューヨーク州クーパーズタウンにあるメアリー・イモジーン・バセット病院の主任医師に任命されます。ここで「致死量の放射線を受けたげっ歯類に、骨髄細胞を注入すると救助できる」という発見をしました。

げっ歯類の実験の結果が良好だったことにより、トーマスは1957年に世界で初めて白血病の患者に対して骨髄移植を行いました。移植は成功したかに思えましたが、患者は白血病を再発して亡くなってしまいます。その当時に骨髄移植を受けた患者は、全員死亡したという記録もあります。げっ歯類の研究では予測できなかった感染症や重度の免疫反応が原因で多くの患者が亡くなったため、多くの研究者も骨髄移植の研究から退きました。
それでもトーマスは諦めず、犬を使用して実験をします。1963年からはシアトルの米国公衆衛生局(USPHS)で研究を始め、後進を指導しながら少人数の研究チームを作りました。そして、このチームでは「癌細胞根絶のための高強度照射治療法開発」「移植における組織マッチングの重要性の確立」「移植で使用する免疫抑制剤の組み合わせを開発」「人間のリンパ球に対する抗体の産生」などの成果を挙げました。

これらの研究結果をもとに、再び人間の患者に対して骨髄移植をしました。初期に行われた治療では生存率が低く、予想外の症状を検証する必要がありました。そして地道な検証を続けるうちに、ドナー(血液疾患の患者のために骨髄液や末梢血幹細胞を提供する人)のリンパ球が残存悪性細胞の除去に役立つことが判明します。そしてその後行われた治療実験では、免疫抑制剤を使用することで血縁関係のないドナーからの移植に成功しました。

骨髄移植に成功したことで、トーマスは骨髄ドナープログラムの立ち上げに踏み切ります。
そして、再生不良性貧血(骨髄にある造血幹細胞という血液細胞が減少し、血液の中のあらゆる成分が減少する病気)などの疾患に関しては、生存率を大幅に上げることができたのです。
1972年、アメリカ政府は米国公衆衛生局(USPHS)病院の閉鎖を決定します。それに伴い、フレッド・ハッチンソンがん研究センターが設立され、トーマスは腫瘍内科部門のリーダーとなりました。そして、引退するまで何百人もの若い研究者を指導し世界中の移植センターに教え子を派遣しました。
この骨髄移植の開発及び研究は世界的な注目を浴び、1990年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。また、カール・ラントシュタイナー記念賞・ガードナー国際賞・アメリカ国家科学賞など数多くの賞も受賞しています。

◆終わりに

トーマスは、世界で初めて骨髄移植の治療法を確立し成功させました。研究の過程で人が亡くなっていくというものすごく倫理観を問われる現場で、1つの正義を見出し研究を続けるべきだという判断をするのは、容易なことではなかったはずです。しかし彼が研究を諦めなかったおかげで、今ではたくさんの人の命が救われていることも事実です。そんなエドワード・ドナル・トーマスも、2012年10月20日に92歳で亡くなりました。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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