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ノーベル生理学・医学賞 1992年 エドモンド・フィッシャー:エドヴィン・クレープスと共にホスホリラーゼを研究した生化学者

エドモンド・フィッシャーは、アメリカの生化学者です。1992年に『可逆的タンパク質リン酸化による細胞プロセス調節スイッチの発見』でノーベル生理学・医学賞を受賞しました。この受賞は、生化学者エドヴィン・クレープスとの共同研究によるもので、同時受賞しています。そんなエドモンド・フィッシャーの受賞までの道のりについて詳しく解説していきます。

◆生年月日、生まれた町、生まれた町の概略

エドモンド・フィッシャーは、1920年4月6日に上海で生まれました。

※上海の景観

上海は、中華人民共和国の東側にある長江の河口に位置する大都市です。中国の商業、金融業、工業などの中心地で、2020年にはアメリカのシンクタンクの世界都市ランキング総合部門で第12位となりました。

1842年の南京条約により条約港として開港した上海は、イギリス領事が駐在しフランスやアメリカ合衆国などからも移住者が訪れるようになりました。その後、香港上海銀行の設立をきっかけに、欧米の金融機関が多数進出します。1920年代から1930年代にかけては中国最大の都市として発展し、金融の中心都市となりました。

◆幼少期、学生時代

フィッシャーが7歳になると、2人の兄ラウル、ジョージと共に、スイスの寄宿学校ラ・シャテグネライエに送られます。その後、1935年にジュネーブのカルバンカレッジに入学すると、彼はとても親しくなった友人と「どちらか一人が医師になり、もう一人が科学者を目指そう。二人の力を合わせれば世界中の病気を治せるはずだ。」という約束を交わします。

その一方で、ジュネーブ音楽院へも入学を果たしたフィッシャーは、専門的な音楽教育を受ける機会を得ました。在学中には魅力的なアーティストとの出会いもあり、プロの音楽家になることも考えたと語っています。

※ジュネーヴ大学

音楽家になることを諦め、再び進路を考えはじめたフィッシャーは細菌学の道に進むことを志望します。彼は化学分野について学ぶことを決意し、ジュネーヴ大学へ入学すると有機化学と生物学を専攻しました。

大学在学中は有機化学科部長のカート・H・マイヤーの指導を受けます。そして、豚の膵臓からα-アミラーゼを精製する実験に取り組み、有機化学の博士号を取得しました。

◆受賞に至るまでの逸話など

※ワシントン大学シアトルキャンパス

ジュネーヴ大学で博士課程を修了したフィッシャーは、研究を進めるため1950年にアメリカ合衆国へ渡りました。渡米後はカリフォルニア工科大学で研究を行う予定でしたが、突然彼の元にシアトルのワシントン大学から誘いがかかります。

フィッシャーはどちらの大学で研究を行うのか悩みましたが、スイスの景色を連想させる山や森・美しい湖のあるシアトルに定住し、ワシントン大学で働くことを決めました。そして、同大学の生化学部に在籍していたエドヴィン・クレープスと出会うことになります。

フィッシャーがワシントン大学に着任してから六ヶ月後、エドヴィン・クレープスと共にホルモンとカルシウムに関する研究をスタートしました。

その結果、ホルモンとカルシウムには酵素の活性化・不活性化を促す反応があることを発見し、彼らはそれに対して『グリコーゲンホスホリラーゼ』という名称を付けます。さらに研究を進め、彼らはタンパク質を可逆的にリン酸化させることを発見しました。

また、フィッシャーとクレープスはタンパク質同士の情報伝達が行われる仕組みについて研究を行います。筋肉を使った実験により、タンパク質のリン酸化する反応とリン酸化を外れる反応が切り替わることで、情報伝達が行われていることが判明しました。

この『可逆的タンパク質リン酸化による細胞プロセス調節スイッチの発見』により、フィッシャーとエドヴィン・クレープスは、1992年度のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

◆終わりに

エドモンド・フィッシャーはエドヴィン・クレープスと共に『可逆的なタンパク質リン酸化のメカニズム』を発見し、ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。フィッシャーはノーベル賞受賞後も精力的に研究を行っており、様々な細胞の中で起こる可逆的なタンパク質リン酸化の研究における第一人者となっています。

参考:Wikipedia
エドモンド・フィッシャー
上海市(地理)

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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