
ベニー・グッドマン:スイングの王様が取り入れた黒人グルーブ
1930年代にスイングの王様と称えられ、現在でも多くの人から愛されているベニー・グッドマン。ノリの良いスイングジャズの頂点に立てたのは、黒人が人間として扱われていない時代に、黒人をバンドに採用したからです。また優秀な黒人には編曲や作曲も任せる最初のミュージシャンでした。「人種差別なんて音楽には関係ない」と感じるベニー・グッドマンについて見ていきましょう。

ダンスミュージックは好きですか?2010年代のダンスミュージックといえばEDMですよね。クラブ好きはEDMで踊り明かすこともあるでしょう。

しかし今から80年くらい前の1930年代、この時のダンスミュージックはスイングジャズが主流でした。独特なスイングのノリは今のEDMにはあまりありませんが、当時としてはノリの良い音楽としてとても流行ったのです。
そんな中「sing,sing,sing」や「Don’t Be That Way」などの名曲を演奏してきたベニー・グッドマンは、スイングジャズ界でも圧倒的な人気と名声を誇ります。
それは音楽が良いとかテクニックがあるということだけではなく、人類の歴史にも大きく関わっているのです。それが白人や黒人、肌の色が関係ないバンドを完成させたことです。
この記事ではスイングジャズの王様と称されるベニー・グッドマンについて探っていきます。
スイングジャズの王様
スイングジャズとは、1930年代から1940年代にかけて流行った音楽のジャンルをいいます。スイングと呼ばれる独特なリズムを含んだダンスミュージックです。
ダンスミュージックと聞くと、黒人のイメージもあるかもしれませんが、初期のスイングジャズは白人が主体となっていることも要素の1つとしてあげられました。ベニー・グッドマン以前の大きなジャズバンドは白人ばかりの演奏集団でした。
時代背景にみるベニー・グッドマンの功績

1930年代は白人と黒人の間に大きな壁がありました。今では考えられないことですが、乗り物やトイレなどほとんど全ての施設が、白人用と黒人用に分かれていた時代です。これは音楽業界においても同じことがいえます。
当時は白人ミュージシャンと黒人ミュージシャンが一緒にステージ上で演奏することもレコーディングすることもない時代でした。アメリカの地域によって差はあったものの、同じステージに白人と黒人が立ったらどのようなことになるのかわからなかったのです。
ベニー・グッドマンが音楽の面から白人と黒人の壁を取り払ったのは大きな功績の1つです。
またこの当時の音楽は大きな転換期にもなっていました。それはレコードやラジオが発達したことです。それまでは音楽を気軽に聴くこともできないような時代でした。ラジオやレコードが普及すると、これまでの演奏とは大きく変わることがあります。
それがラジオやレコードから流れてくる音となるべく同じようにしなければならないということです。それまではミュージシャンのアレンジなどで曲を大きく変えても、特に問題はありませんでした。
しかしラジオから流れてくる音楽と同じように演奏しなければならないことが、スイングジャズを流行らせた理由の1つなのかもしれません。ベニー・グッドマンは構成やソロの演奏などを念入りに考え、曲にズレがないように努力した人物でもあるのです。
ベニー・グッドマンによってスイングジャズが世界に広まったと言っても過言ではないでしょう。
天才と称された少年
ベニー・グッドマンは、裁縫職人の九男として1909年シカゴに生まれます。家は相当貧乏だったということもあり、学校へはあまり行けずに、無料で通える音楽学校に通っていました。ベニー・グッドマンは幼い時から才能を開花させます。
なんと10歳にはプロのクラリネット奏者として知名度をあげ、11歳にデビューするのです。ニューオーリンズで流行ったジャズですが、20年代には全国的に広まっていました。ベニー・グッドマンもジャズを中心に聴いて育ったのです。この時聴いていたのは、キング・オリバーやルイ・アームストロングなどの黒人ミュージシャンも多かったようです。
プロデューサーの力あっての人気者に
11歳でプロのミュージシャンとしてデビューしたベニー・グッドマンは、26歳の頃にはバンドのリーダーになりました。しかしベニー・グッドマンはかなり内気な人だったようで、様々な人のサポートを受けるのです。
サポートした人物でも重要な2人がプロデューサーの「ジョン・ハモンド」とマネージャーの「ウィラード・アレキサンダー」です。2人の尽力もあり、アメリカ横断ツアーの決行やNBCラジオのヒット・パレードによるプロモーションが行われました。
このタイミングがまさに絶妙!世界恐慌からの回復が後押ししたこともあり、スイングした陽気な音楽がアメリカ中響き渡るのです。ベニー・グッドマンの名は世界恐慌の回復とともに広まっていきました。
スイングジャズの頂点に立てたのは黒人の力があったから?
スイングジャズが確立したのは、ベニー・グッドマンの寛容な心とプロデューサーのジョン・ハモンドの力が大きいです。黒人をバンドに加入させたのはジョン・ハモンドのアイデアだと言われています。
バンドに黒人を加入させた

当時の白人と黒人の間には大きな壁がありました。そんな環境下で白人のバンドに黒人を加入させたのです。これにはバンドメンバーのみならず、視聴者の反発なども強くありました。この挑戦は大きな挑戦だったのです。
ベニー・グッドマンのバンドに加入した黒人ミュージシャンには、テディ・ウィルソンやライオネル・ハンプトン、そしてビリー・ホリデイも参加しています。またミュージシャンだけでなく、編曲や作曲にも黒人を採用したのです。この当時はラジオの影響で、レコーディングとライブ演奏に差が出ないように、編曲の重要性が問われた時代でもありました。
黒人による独特なノリやリズム感覚、そして曲の構成などがスイングジャズを生み出した大きな要因になっているのです。
黒人の扱いは最悪だった
黒人をバンドに加入させることは口で言えば簡単なことですが、トイレやレストランも別で一緒にはなれません。しかしバンド活動はみんな一緒に行動することが求められます。バンドで立ち寄ったレストランでも黒人だけ食事ができないなんてこともあったでしょう。
またバンドメンバーだけでなく、視聴者にも白人バンドの中に黒人がいることをよく思わない人もいたでしょう。だからこそバンドリーダーであるベニー・グッドマンは、白人と黒人をまとめ上げたのが評価されるポイントなのです。
村上春樹の著書より、ベニー・グッドマンについて、
肌の色なんかよりは、その時代その時代の優れたミュージシャンをリクルートし、新しい息吹を迎え入れ、自分の楽団を常に第一線の刺激的な存在にしておくことがグッドマンにとって最優先事項だった。
村上春樹著 ポート・レート・イン・ジャズより引用
楽器から出てくる音さえ素晴らしいものであれば、そしてそれがご機嫌にスイングさえすれば、彼は半魚人だって雇ったかもしれない。
と語っています。
ベニー・グッドマンは小さい頃から音楽の才能を開花させ、第一線で活躍し続けた人物です。彼の考えでは、肌の色なんかより素晴らしい音楽を奏でてくれれば誰でもよかったのでしょう。
伝説を作ったのは黒人の努力もあった
ベニー・グッドマンばかりが評価の対象になりがちですが、テディ・ウィルソンをはじめとした黒人ミュージシャンも評価しなければならないでしょう。なぜなら、白人のバンドに入って批判を受けたのは黒人そのものだからです。
むしろ黒人の多くが忍耐力を振り絞ってバンド活動を続けてくれたから、ベニー・グッドマンはスイングジャズを完成させ、当時のダンスミュージックとして流行したのです。ベニー・グッドマンのバンドがジャズバンドとして初めて、白人黒人混成によるレコーディング、そしてコンサートを行いました。
これらの偉業を成し遂げたのはベニー・グッドマンだけでなく、プロデューサーや黒人ミュージシャンの努力があったからです。
※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。