ユルマズ・ギュネイ:トルコを代表する映画監督

ユルマズ・ギュネイは1937年4月1日にトルコのカタラシュ、アダナ県に生まれた映画監督です。執筆した小説が共産主義的であるとして刑務所に投獄されたこともあったものの、獄中から指示を出して映画制作を行うなど並々ならぬ情熱をもった人物として知られています。そんなユルマズ・ギュネイの人生と作品について詳しく解説していきます。

■ユルマズ・ギュネイとは

ユルマズ・ギュネイは1937年4月1日トルコのカタラシュ、アダナ県に生まれた映画監督です。アンカラとイスタンブールの大学で法律と経済学を学んでいたものの、在学中から俳優・脚本家として映画業界で働くようになっていきました。

ギュネイはすぐに二枚目俳優として人気を集めるようになり、1975年までに100本以上の作品に出演。また脚本家としても1983年までに50本以上の脚本を執筆するなど、制作意欲にあふれた人物でもありました。しかし1960年に国内でクーデターが起こると執筆した小説が共産主義的であるとされ、1960年から1962年までの2年間、ギュネイは刑務所に投獄されることになります。

ギュネイは出所すると1966年に映画監督としてデビュー。その後、映画制作会社「ギュネイ・フィルム」を立ち上げ、『希望』や『エレジー』をはじめとした代表作を制作しました。制作した本数は4年間で13本にも達したものの、その多くはトルコ政府から上映禁止処分を受けてしまいます。

1972年にはアナーキストの学生を匿ったとして再び投獄されることになりますが、ギュネイは獄中から指示を出して制作に参加。その後出所したものの、カジノでの口論のなか群判事のセファー・ムトゥルを射殺したとして逮捕され、19年の禁固刑を言い渡されてしまいます。しかし再びギュネイは獄中から指示を出し、『群れ』や『敵』といった作品を制作。『群れ』はロカルノ国際映画祭特別賞や英国映画協会サザーランド杯を受賞し、高く評価されました。

1981年には刑務所を脱獄し、フランスに亡命をしたギュネイ。服役中に制作していた『路』を完成させ、第35回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞。ようやく自由な環境で映画製作に没頭できると思ったのも束の間、胃がんが悪化し1984年には47歳でその生涯を閉じることになります。

■ユルマズ・ギュネイとは

ユルマズ・ギュネイの作品の特長は何といってもその制作過程といえるでしょう。ギュネイは3回も投獄されており、その度獄中から指示を出し映画製作を進めています。そうした過酷な環境にあっても制作意欲を失うことなく制作し続けたギュネイの情熱は、一体どこから湧き出ていたのでしょうか。そんなギュネイの主要な作品についてご紹介します。

・『希望』 1970年

本作品は1970年に制作されました。現代トルコ社会における矛盾をテーマとしていたことから、トルコ国内では上映禁止になったものの、1971年のカンヌ映画祭で注目を浴び、国際的な関心を集めました。また1972年のグルノーブル映画祭では審査員特別大賞を受賞しています。

ジャバルには妻と5人の子どもがおり、生活費を稼ぐため乗合馬車の御者として仕事をしていました。しかしなかなか客にありつくことができず、さらには商売道具である馬も事故で失い途方に暮れていました。そんな状況下でもジャバルには宝くじで一攫千金を夢見ていました。友人ハサンの勧めでジェイハン川に宝探しに行くことに。夢である一攫千金をかけ、ジャバルは四六時中掘り進めるのでした。

・『群れ』 1978年

本作品は1978年に制作されました。
牧畜を営んでいるヴェイシカン家では父親のハモが気難しい性格で、家族はそれに耐えながら生活をしていました。ハモには3人の息子がおり、長男のシヴァンは対立するハリラン家の娘ベリヴァンと結婚していました。ハモはベリヴァンを目の敵にしており、またベリヴァンは子どもを3人も死産してしまったことから心を閉ざしてしまいます。ベリヴァンを医者にみせようと考えたシヴァン。羊の買い手がついたタイミングで、ハモをはじめとした息子たちは街に向かうことになりますが、そこでは悲劇が待ち構えていました。

■おわりに

ユルマズ・ギュネイは1937年にトルコのアダナ近郊で生まれた映画監督であり、3度の投獄にもかかわらず、獄中から指示を出すという方法で映画製作を行い、国際的にも高い評価を受けました。晩年は脱獄してフランスに亡命し自由な制作環境を得たものの、胃がんのため47歳という若さでその生涯を閉じることになります。

もしギュネイがより長い人生を歩んでいたら、どのような作品を制作していたのでしょうか。ギュネイの遺志を継ぐトルコの若手映画監督たちの今後が期待されます。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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