カール・テオドア・ドライヤー:『裁かるるジャンヌ』『吸血鬼』を制作した映画監督

カール・テオドア・ドライヤーは1889年2月3日デンマークのコペンハーゲンに生まれた映画監督です。さまざまな国で映画製作に励み、特に幼いころの経験から社会の抑圧や不寛容をテーマとして数多くの作品を制作しました。そんなカール・テオドア・ドライヤーの人生と作品について詳しく解説していきます。

■カール・テオドア・ドライヤーとは

カール・テオドア・ドライヤーは1889年2月3日デンマークのコペンハーゲンに生まれました。父は裕福な地主だったものの、母はその家の女中であり、カールは私生児でした。そのため母親は妊娠発覚後スウェーデンを離れデンマークで出産するように強制され、カールは生まれてすぐ乳児院に預けられることとなります。その後母は別の男性との間に再び子供を身ごもったものの、結婚を拒否されてしまい、硫黄をつかった民間療法による中絶を試みた結果、硫黄の過料摂取による中毒で死亡。ドライヤーは18歳の時にその事実を知ることとなりますが、男性や権力者による欺瞞が母を追い詰めたと知るや、映画製作にもそうしたテーマを取り入れるようになっていきました。

ドライヤーはその後ジャーナリストに転身し、新聞に演劇評論を発表するようになります。ドライヤーの興味は次第に映画に寄せられるようになり、ジャーナリストとして働く傍ら、デンマークの映画会社ノーディスク・フィルムで働くようになっていきました。そこで編集とサイレント映画の字幕など映画の基本となる技術を学んだことにより、ドライヤーは徐々に制作に身を転じるようになっていきました。

その後1918年には初監督作品となる『裁判長』を制作。その後も続々と作品を執筆するも、当時のデンマークは不況により映画界も予算不足にあえいでおり、ドライヤーは制作費を得るためヨーロッパの国々を渡り歩かざるを得ませんでした。『不運な人々』はドイツ、『むかしむかし』はスウェーデンで制作されており、スタジオ独占契約を結び映画製作をしていくという当時のスタイルからすると、ドライヤーの制作スタイルは極めて異例なものでした。

(Public Domain/‘The Passion of Joan of Arc (1928) English Poster’ by Unknown. Publisher: New York: Eloquent Press, N. Morgillo. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

そんな中1924年にドイツで制作した『ミカエル』や1925年にデンマークに帰国して制作した『あるじ』では興行的な成功をおさめ、その評判を聞きつけたフランスのソシエテ・ジェネラール・ドゥ・フィルムから歴史劇の制作の依頼を受けることとなります。依頼はマリー・アントワネット、カトリーヌ・ド・メディシス、ジャンヌ・ダルクと3つの企画案が提示されたものの、ドライヤーはジャンヌ・ダルクを選択し、異端審問と火刑までの実際の裁判記録を描いた伝記映画を制作することになります。

その後は初のトーキーとなった『吸血鬼』をフランスとドイツで制作したものの、興行的には失敗に終わり、また『裁かるるジャンヌ』のオリジナルネガが火事で焼失するなどの不運に見舞われたことから、ドライヤーは失望の日々を送ることになります。しかし1955年に制作した『奇跡』はヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を、また1964年に制作された『ゲアトルーズ』もまた国際映画批評家連盟賞を受賞し、国際的にも高い評価を得るようになっていきました。

そうして10年に1作品というペースでありながら極めて質の高い作品を制作していたドライヤーでしたが、1968年3月20日の明け方ドライヤーはコペンハーゲンの病院内で亡くなることになります。晩年ドライヤーはキリストの生涯とエウリピデスの戯曲『メディア』の映画化という2本の企画を進めていましたが、その企画が実現することはありませんでした。

・『あるじ』 1925年

(Public Domain/‘Duskalæredinhustru’1925’ by Unknown Author. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1925年に制作された作品で、ドライヤーの7作目にあたる作品です。

舞台は冷たい風が吹く北国。とある一家の主である父親はわがままで、自分さえよければ妻も子どももかまわないというような調子でした。自分だけは暖かい飲み物を飲みおいしいものを食べており、妻がどんなにつかれていようともまずいものを食べていようとも意に介さず、そんな父親に子どもたちが寄り付くことはありませんでした。それを見かねた祖母は一計を案じ、母親を実家に帰すことにします。子どもたちにも話して父親の世話をしないことにし、結果父親は困り切ってしまいます。そうした経験を通して父親は妻や子どもたちがどれだけ自分のために尽くしていてくれるのかを悟り、心の底から詫びる気持ちになったのです。

疲れ切っていた母親の顔にも明るいほほえみが浮かび、子どもたちも元気に学校へ。寒い寒い北国の家は大雪がふぶいていたものの、一家の団らんはまるで春のように暖かいのでした。

・『吸血鬼』 1932年

※画像はイメージです

本作品は1932年に制作された作品で、イギリスの小説家シェリダン・ル・ファヌーの原作小説を映画化した作品です。

夢想家で奇人でもあったアラン・グレーは夜遅くクルタンピエール村のさびれた旅館にやってきます。その旅館の周りの光景は凄惨なものであり、その夜グレーは恐ろしい夢を見るのでした。それは老婆の姿をした吸血鬼がある村医者とその助手である義足の男を忠実な家来にし、人間の生き血を追い求めるという恐ろしい夢でした。この吸血鬼はかつて大罪を犯したことにより墓場に入っても安息を得ることが叶わず、人間の生き血を吸い続けなくてはならない定めにありました。

まず吸血鬼は義足の男に城主を殺害させます。その城主の客であったグレーは古い記録によって吸血鬼の存在とその魔力を学ぶようになります。徐々にグレーと城主の二番目の娘ジゼールとの間には愛情が芽生えるようになっていきました。

・『奇跡』 1955年

※画像はイメージです

本作品は1955年に制作された作品で、現代で奇跡は起こることはないとわかりながらも伝説の再現を待ち続ける人々を描いた作品です。

1930年ごろのデンマーク。ボーエン農場の家長モルテン・ボーエンは妻に先立たれたものの、3人の息子たちや孫に囲まれて悠々自適な老後を過ごしていました。ボーエンは一台で農場を盛り上げ、信仰心も厚かったことから人々の信頼を集めていたものの、信仰が奇跡をもたらすと信じる姿を笑う人もいました。

ボーエン一家の兄弟は神を信じない長男のミケル、神を信じすぎて自分をキリストだと信じているヨハネス、そして宗教で対立する仕立て屋ペーターの娘アンネに恋する三男のアーナスであり、家族の間には問題ばかりが起きていました。そんなモルテンにとっての救いはミケルの嫁であるインガであり、インガは義父と夫の対立を気遣い、これから生まれてくる3人目の子どもがモルテンの願い通り男の子であることを祈っていました。

■おわりに

カール・テオドア・ドライヤーはデンマークに生まれた映画監督であり、社会的不寛容や男性や権力者の欺瞞といったテーマをもとに作品制作に励んだ映画監督です。デンマーク映画に関心のある方は、ぜひドライヤーの作品を鑑賞してみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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