フランソワ・トリュフォー:ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督

(Public Domain/‘Photograph of the French filmmaker François Truffaut during his visit to Finland.’ by Ensio Ilmonen / Lehtikuva. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

フランソワ・トリュフォーは1932年にフランスのパリに生まれた映画監督で、ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督の一人といわれている人物です。『大人は判ってくれない』や『アメリカの夜』といった作品を制作し、映画作家のアレクサンドル・アストリュックからは「愛のシネアスト」とも呼ばれました。そんなフランソワ・トリュフォーの人生と作品について、詳しく解説していきます。

■フランソワ・トリュフォーとは

(Public Domain/‘François Truffaut (1963)’ by Unknown. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

フランソワ・トリュフォーは1932年2月6日にフランスのパリに生まれた映画監督です。両親が離婚したことから孤独な日々を送り、そのためか早くから映画館に通いつめ、1947年にはシネクラブを組織するようになっていました。そんなトリュフォーを見出したのは批評家アンドレ・パザンであり、パザンが主催する『カイエ・デュ・シネマ』では先鋭的な映画批評を発表。その後も評論家として活動していたものの、徐々に制作に携わるようになっていきました。

短編映画を発表したのち、1956年にはロベルト・ロッセリーニの助監督に就任し、数多くの作品を制作。その後1957年には配給会社の社長令嬢と結婚したことにより後ろ盾を得、制作会社「レ・フィルム・デュ・キャロッス」社を設立。その後も1959年にはキャロッス社とSEDIFの共同制作で初の長編となる『大人は判ってくれない』を監督し。同作は大ヒットし、トリュフォーの名前はもちろん、ヌーヴェル・ヴァーグの名前を広めるきっかけとなりました。

その一方で1968年のカンヌ国際映画祭においてはコンテストの必要性をめぐって大論争を引き起こし、トリュフォーはもっとも過激な論を展開したため、もっとも親しい友人であったゴダールはもちろん、ヌーヴェル・ヴァーグの面々と徐々に疎遠になっていきました。

その後1983年には脳腫瘍と診断されたことにより、ミッチェル・ベルジェとフランス・ギャルのもとで静養。友人であるミロシュ・フォアマン監督の『アマデウス』のプレミアに出席することを望んでいたものの、叶わず1984年10月21日にはその生涯を閉じることとなります。

■フランソワ・トリュフォーの作品

フランソワ・トリュフォーの作品の特長は、ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督らしくロケ撮影や同時録音、即興演出といった手法を取り入れていることでしょう。ヌーヴェル・ヴァーグは1950年代末に始まったフランスにおける映画運動のことであり、トリュフォーはその中心人物でした。トリュフォー自身はその過激な論調で問題を起こすこともあったものの、その作品は映画作家のアレクサンドル・アストリュックからは「愛のシネアスト」と呼ばれるなど、非常に情緒的なものだったといえます。

そんなフランソワ・トリュフォーの作品には、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品についてご紹介します

・『大人は判ってくれない』 1959年

※画像はイメージです

本作品は1959年に制作された作品で、トリュフォー初の長編映画にあたります。同作を見たジャン・コクトーは「わがフランソワ君、君の映画は傑作である。奇跡のようなものだ。親愛のキスを送る」との賛辞を送ったといわれています。本作は当時の文化大臣アンドレ・マルローの推薦を受けてカンヌ国際映画祭に出品され、監督賞を受賞。また本作の大ヒットによってトリュフォーはヌーヴェル・ヴァーグの旗手と呼ばれるようになりました。

12歳のアントワーヌ・ドワネルにとって、毎日は苦痛の連続でした。学校の成績は悪く、いたずら好きのため先生には怒られ、家では厳しい母親と稼ぎの少ない父親に囲まれ息の詰まるような生活を送っていました。ある日登校中に親友のルネと出会い学校に行かずに遊びに出ていたアントワーヌは、街中で見知らぬ男と母親が抱き合っているのを見てしまいます。翌日前日の欠席の理由を教師に追求されたアントワーヌは「母が死んだため」とうそをつきますが、欠席を知った両親が現れ、嘘がばれてしまうのでした。

そんなある日、尊敬するバルザックの文章を丸写しして提出した作文がばれて教師に叱られ、それを弁護したルネが停学に追い込まれてしまいます。アントワーヌは金持ちのルネの家に隠れ住むようになり、ルネと一緒に父親の会社のタイプライターを盗むなどの悪事を働き、非行少年として少年審判所へ送られてしまいます。アントワーヌは鑑別所送りになり、ようやく面会に来た母親にも冷たい態度を取られたアントワーヌは監視のすきに脱走。そして海にたどり着き、ふとこちらを向いたまま動きを止めるのでした。

・『華氏451』 1966年

本作品は1966年に制作された作品で、レイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』を映画化した作品です。華氏451は紙が燃え始める温度を意味しており、トリュフォーの書物への愛があふれた作品となっています。

徹底した思想管理体制によって、書物を読むことが禁じられた社会。書物の探索と焼却を任務としている「ファイアマン」のひとりモンターグは、偶然出会った女性クラリスの影響でこれまで処分の対象だった本の存在を意識し始めるようになります。無気力な妻リンダと違い、クラリスは本に熱意を持っており、モンターグもまたチャールズ・ディケンズの『ディヴィッド・コパフィールド』をはじめとして活字のとりこになってきました。

しかしそんなモンターグの様子を知ったリンダは当局に密告し、モンターグは管理体制から粛清を受けることになってしまいます。モンターグはファイアマンを辞職する旨を申し出たものの、とにかく今日だけはといわれて出動。しかし出動先はモンターグの家であり、自分の本を焼き捨てるように命じられてしまいます。モンターグはそれならばと本ばかりか家まで焼こうとし、それを制止しようとした隊長に火炎放射器を向けて殺害してしまいます。

殺人犯として追われることになったモンターグは逃走し、人里離れた森にたどり着きます。そこはいつしかクラリスが話してくれたことがある「本の人々」が住む国であり、すべての本が焼かれても後世に残せるように本を暗記していました。やっと本を読む自由を得たモンターグは、エドガー・アラン・ポーの暗誦をはじめるのでした。

■おわりに

フランソワ・トリュフォーは1932年にフランスのパリに生まれた映画監督であり、『大人は判ってくれない』や『華氏451』といった映画史に残る作品を制作した人物です。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手として有名であり、過激な論調を展開することもあったものの、フランス映画史を牽引した映画監督として今も高く評価されています。

トリュフォーは脳腫瘍で52歳と若くしてその生涯を閉じることになりますが、もしより長い人生を生きていたとしたらどのような作品を制作していたのでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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