フレッド・ジンネマン:『ジャッカルの日』や『尼僧物語』を制作した映画監督

(Public Domain/‘Publicity photo of Fred Zinnemann.’ by MGM. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

フレッド・ジンネマンは1907年4月29日にオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに生まれた映画監督です。信念を貫く人物を主人公とした作品を制作したことで知られており、また自らもハリウッドの中で商業主義的な映画製作に批判的な態度を示すなど、信念を押し通す映画人として知られていました。そんなフレッド・ジンネマンの人生と作品について詳しく解説していきます。

■フレッド・ジンネマンとは

※画像はイメージです

フレッド・ジンネマンは1907年オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンに生まれました。ジンネマンの家計は代々医師のユダヤ系ドイツ人であり、父もまた医師として働いていました。ジンネマンは幼いころから音楽家になることを夢見ていたものの、早くに才能がないことを悟り断念。ウィーン大学に進学したのちはセルゲイ・エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』やキング・ヴィダーの『ビッグ・パレード』といった映画に夢中になり、映画で生計を立てることを夢見るようになります。

1972年にはフランスにわたり、パリの映画撮影技術学校で映画作りの基礎を学びます。当時オーストリアではファシズムが興隆しつつあり、両親の反対を押し切っての神学でしたが、その後ドイツのベルリンでカメラマン助手の仕事につき、映画界でのキャリアをはじめることになります。しかしそのころ最先端の映画が撮影されているのはハリウッドであり、ヨーロッパの映画業界の停滞を感じ取ったジンネマンはアメリカにわたることになります。

しかしジンネマンがアメリカのニューヨークに到着した日は、不幸にも世界恐慌に突入した最初の日であり、ハリウッドに向かってカメラマンを志望するも配役が仮に回されて『西部戦線異状なし』のエキストラを演じるなど、思ったような仕事に就くことはできませんでした。しかし6か月後映画監督ベルホルト・ヴィアテルの助手となり、セルゲイ・エイゼンシュタインやチャールズ・チャップリン、ジャック・フェデールと知り合うようになります。そうしたヴィアテルの友人の一人であった記録映画監督であるロバート・フラハティの助手になることを申し出てフラハティとともにベルリンにわたりますが、この作品は結局実現することはありませんでした。

※『永遠に愛せよ』
(Public Domain/‘Gary Cooper and Ann Harding in the film trailer for Peter Ibbetson, 1935’ by Paramount Pictures. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1933年にはメキシコから長編ドキュメンタリー映画作品の依頼があり、『波』を制作。またハリウッドでは『永遠に愛せよ』や『椿姫』などの仕事につき、1938年にはMGMで短編映画の監督に就任することになります。これは10分程度の映画を制作するという仕事で、主人公の一生を低予算、短期間、かつ10分半程度で描かなくてはならないという短編映画の仕事は、その後のジンネマンの作品に大きな影響を与えることになります。

1941年には『Kid Glove Killer』を監督。また同じくB級映画の『Eyes in the Night』を監督したのち、ナチスドイツからの逃亡者を描いた『The Seventh Cross』を監督するものの、撮影の際会社ともめ事を起こしたジンネマンは再びB級映画を制作するようになります。しかしこのころジンネマンはヨーロッパの映画の質の高さに関心を抱いており、センチメンタリズムばかりが強調されるハリウッド映画に疑問を感じるようになっていました。

※『山河遥かなり』
(Public Domain/‘Cropped screenshot of Montgomery Clift from The Search.’ by Trailer screenshot. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

そうした姿勢の元制作された『山河遥かなり』はアカデミー賞にノミネートされ、1952年に制作された『真昼の決闘』では保安官の弱さや孤独を描き、主演の保安官を演じたゲイリー・クーパーがアカデミー主演男優賞を受賞。また『地上より永遠に』ではアカデミー賞作品賞のほか監督賞など計8部門を受賞し、世界的な名監督となっていきました。

晩年はイギリスを拠点にしていたものの、1997年には心臓発作で89歳の生涯を閉じています。

■フレッド・ジンネマンの作品

フレッド・ジンネマンの作品の特長は、信念を貫く人物を主人公とした骨太の作品を描いたことでしょう。ジンネマン自身もまたハリウッドにおいて会社に反した姿勢を貫きながらも、自らの信念に基づいて作品を制作し、その後の若い世代に大きな影響を与えました。

そんなジンネマンの作品には、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品についてご紹介します。

・『ジャッカルの日』 1973年

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本作品は1973年に制作された作品で、1971年に発表されたフレデリック・フォーサイスの小説を映画化した作品です。

1954年に始まったアルジェリア戦争は泥沼状態に陥り、1958年には本国政府の弱腰に業を煮やした現地駐留軍の決起によって第4共和政は崩壊。シャルル・ド・ゴールが大統領に就任したことによって第5共和政が開始されることになります。

そんななか1962年8月26日ペティ・クラマール郊外でパリ近くの空港へ向かおうとしていたド・ゴール大統領を乗せた車が銃撃される事件が起きます。奇跡的に大統領は無事だったものの、大統領暗殺計画は6回目であり、首謀者ジャン・マリエ・タリ―・中佐は銃殺刑に処せられます。こうした動きから政府側の締め付けが厳しくなったド・ゴールに反対する秘密組織OASの指導者ロダン大佐は、外国人で当局に顔も名前も知られていない殺し屋を雇うことにします。男の暗号名はジャッカルといい、フランス国内に侵入したのちド・ゴール大統領暗殺の任務に就くことになります。

・『わが命つきるとも』 1966年

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(Public Domain/‘Portrait of Henry VIII’ by  Hans Holbein the Younger. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1966年に制作された作品で、ロバート・ボルトの戯曲をボルト自ら映画用脚本に書き改めた作品です。第39回アカデミー賞では8部門にノミネートされ、6部門を獲得しました。

1528年イングランド国王ヘンリー8世は宮廷の女官アン・ブーリンに恋をし、世継ぎを生まない王妃キャサリンとの離婚を望んでいました。しかし当時のイングランドではカトリックが国境であり、離婚はローマ法王の許しが必要でした。法王に国王の弁護を訴えかけられるのはトマス・モアだけであり、モアは偉大な文学者としてヨーロッパの人々から尊敬と信頼を集める存在でした。

ウルジー枢機卿はモアを呼び出し、大法務官秘書のクロムウェルを通して国王の離婚を法王に承認するようにとりなしてくれるよう依頼したものの、モアはこれを拒否。そのためモアは枢機卿の怒りを買ってしまいます。その後もモアはその崇高な信念に基づいて国王の離婚を法王に訴えかけることを拒否。最後には処刑に処せられてしまいますが、モアは神の元に行けることを確信し刑に臨むことになります。

■おわりに

フレッド・ジンネマンはハリウッドを中心に活躍した映画監督であり、映画製作会社と衝突しつつも自らの信念のもとに作品を制作した人物として知られています。作品にもそのジンネマンの信念が現れており、このころの骨太の作品を鑑賞したい方にはおすすめの映画監督と言えます。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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