ハワード・ホークス:『赤い河』や『真昼の決闘』を制作した映画監督

(Public Domain/‘Head shot of Howard Hawks, taken from File:Howard Hawks With Slim And Dog.jpg’ by Hal McAlpin. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ハワード・ホークスは1896年5月30日にアメリカ合衆国インディアナ州ゴーシェンに生まれた映画監督です。批評家からはB級映画監督と見なされていたものの、1950年代に入ってその制作スタイルが高く評価されるようになり、現在ではアメリカを代表する映画監督の一人に数えられています。そんなハワード・ホークスの人生と作品について詳しく解説していきます。

■ハワード・ホークスとは

(Public Domain/‘Howard Hawks on a motorcycle in 1963 or 1964.’ by Unknown author. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ハワード・ホークスは1896年5月30日アメリカ合衆国インディアナ州ゴーシェンに生まれました。父親の一族は製紙業をはじめとして石油会社や不動産などを扱うことで知られる名家であり、母親の家計もウィスコンシン州の産業界の重鎮であったことから、裕福な少年時代を送ることになります。

1914年にはコーネル大学に進学。1916年には夏休みの間のアルバイトとしてパラマウント映画の前身にあたるフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー・スタジオの小道具係のアルバイトを行うようになり、その働きぶりが評価されて、学生のまま助監督の仕事に就くことになります。

1917年にはメアリー・ピックフォード主演の『小公女』のシーンを数点監督するなど、ハリウッドでは重用されたものの、第一次世界大戦の勃発によりアメリカ陸軍航空部に入隊。飛行部隊の教官の職務に就くことになります。除隊後は大学を卒業し、弟のケネスと共に映画業界入りし、1922年にはパラマウントに脚本家として入社することになります。1924年にはアーヴィング・タルバーグから誘われてMGM映画に移籍するものの、翌年には20世紀フォックスの前身であるフォックス映画と監督の契約を交わし、1926年には長編映画デビューを遂げることになります。

その後はサイレント映画を数点制作したのち、1930年に初のトーキーとなる『暁の偵察』を発表。また富豪のハワード・ヒューズとともに制作したことでも話題になったギャング映画『暗黒街の顔役』を制作したものの、暴力描写や近親相姦を彷彿とさせるシーンが問題視され、公開されたのは1932年になるのを待たなくてはなりませんでした。

(Public Domain/‘Cropped lobby card for the film Twentieth Century’ by Columbia Pictures. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1934年にはコロンビア映画で『特急二十世紀』を制作。また1938年にはRKOで『赤ちゃん教育』を監督するなどさまざまなジャンルに取り組み、晩年も精力的に企画の映画化を試みていたものの、1955年12月26日には心臓の動脈硬化により81の生涯を閉じることになります。しかしその前日にはチャールズ・チャップリンが亡くなっていたこともあり、その死はチャップリンの訃報にかき消されてしまいました。

■ハワード・ホークスの作品

ホークスは現役時アカデミー賞の受賞はもちろんノミネートもされたこともなく、また同時代に活躍したことで知られるアルフレッド・ヒッチコックのような際立ったスタイルもなかったため、B級映画監督とみなされていました。しかし1950年代からは多くの作品で企画からキャスティングにまで関わるスタイルがフランスの映画監督たちから評価されるようになり、世界的な映画作家として評価されるようになっていきました。

そんなホークスの作品には、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品についてご紹介します。

・『暗黒街の顔役』 1932年

(Public Domain/‘Lobby card for the 1932 film Scarface.’ by Astor Pictures – 1946 re-release. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1932年に制作された作品で、1930年代初頭にブームとなった3本のギャング映画の一本とされている作品です。

大親分コステロの用心棒トニー・カモンテは対立するマフィアのボス、ロウヴォに買収されコステロを暗殺。一度は逮捕されるもののロウヴォに助けられて最高幹部として取り立てられることとなります。しかしカモンテはそれだけにとどまらず、大親分の地位とその情婦ポピーを手に入れようとしていました。南地区のボスをシャツしてビール密売の縄張りを奪い、さらには北地区にも手を延ばそうとするも、マシンガンを手に入れたこともあって強気になったトニーは北地区を大虐殺の末に征服。しかしこうした行為は市の当局も問題視しており、ギャング撲滅策を講じることになります。

そんなカモンテが自らの地位を脅かすと悟ったロウヴォは子分にカモンテの暗殺を命じるものの、カモンテは逆にロウヴォを襲い容赦なく射殺。その後ポピーとともに1カ月の旅に出たものの、戻ると溺愛する妹チェスカーが男と同棲していると聞き部屋に駆け付けると、相手の男が弟分のリナルドと知って激昂。怒りのあまり弁明も聞かずリナルドを射殺してしまいます。その後チェスカーから正式に結婚していることをしらされるものの、トニーは聞く耳を持たず、錯乱状態になったチェスカーは警察に密告。警官隊に包囲された挙句、流れ弾を食らったチェスターの死を見たことで恐怖と絶望に飲み込まれ、その瞬間無名の警官に射殺されてしまうのでした。

・『コンドル』 1939年

(Public Domain/‘Theatrical release poster for the 1939 film Only Angels Have Wings.’ by “Copyrighted by Columbia Pictures Corp., New York, N. Y. 1939”. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1939年に制作された作品で、ハワード・ホークスのオリジナルを映画化した作品です。

ニューヨークのショーガールであるボニー・リーは南米での巡業を終えてパナマへ帰る途中、エクアドルの港町に立ち寄り、そこで航空会社のパイロットたちと知り合います。その命がけの仕事ぶりに驚くとともに、ボニーはパイロットたちを指揮しているジェフに心惹かれ始めていました。ボニーはどうしてもパナマに戻る気になれず、1週間港町にとどまることにします。

その翌日新しく雇われたパイロット、バット・マクファーソンがやってくるものの、マクファーソンは同情した機関士を見殺しにしたことで悪名高いキルガロンであり、その機関士はベテランパイロット・キッドの弟であったこともあってパイロットたちは猛烈な反発をしたものの、ジェフはギルガロンをパイロットとして残すことにします。

・『ヒズ・ガール・フライデー』 1940年

(Public Domain/‘Theatrical poster for the American release of the 1940 film His Girl Friday.’ by “Copyrighted by Columbia Pictures Corp, New York, N. Y. 1939”. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1940年に制作された作品で、1930年代初頭から1940年代にかけてハリウッドでさかんに制作されたコメディ映画「スクリューボール・コメディ」の代表作とされている作品です。また1993年にはアメリカ国立フィルム登録簿に登録されたことでも話題になりました。

ウォルター・バーンズはニューヨークの大手新聞社の名物編集長。強引な方法で次々とスクープ記事を出していたものの、妻のヒルディ・ジョンソンには愛想をつかされ、離婚されてしまっていました。ヒルディは穏やかな性格の保険業者ブルース・ボールドウィンとの再婚を決め、田舎町へ引っ越すことにしていました。しかしウォルターはなんとしてもヒルディに警官殺しの容疑者へのインタビュー記事を書かせようとしており、あの手この手でヒルディの出発を後らせようとします。

■おわりに

ハワード・ホークスはアメリカ合衆国インディアナ州ゴーシェンに生まれた映画監督であり、B級映画監督と見なされていたものの、フランスの映画監督たちから高い評価を得てアメリカを代表する映画監督の一人と見なされるようになった人物です。アメリカ映画史に関心のある方は、ぜひホークス作品を鑑賞してみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧