アーノルド・ベネット:『2人の女の物語』『5つの町』シリーズを執筆した小説家

(Public Domain/‘Arnold Bennett – Project Gutenberg etext 13635’ by Unknown author. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

アーノルド・ベネットは1867年5月27日イギリス、スタッフォードシャーのハンリーに生まれた小説家です。フランス的な自然主義的な作風で知られており、20世紀初頭のイギリスでは高く評価されました。そんなアーノルド・ベネットの人生と作品について詳しく解説していきます。

■アーノルド・ベネットとは

(Public Domain/‘Arnold Bennett’ by Pirie MacDonald. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

アーノルド・ベネットは1867年5月27日にイギリスのスタッフォードシャー、ハンリーに生まれた小説家です。生家はメソジストの中流階級であり、父のイーノックは当初陶工として働いていたものの事務弁護士の資格を取り開業。一家の経済的状況は改善し、比較的裕福な生活が送れるようになっていました。ベネットはニューカッスル・アンダー・ライムで教育を受けたのち、父の弁護士事務所に入り、家賃徴収の仕事を手伝っていくようになります。

21歳のときにはロンドンに出て事務弁護士事務所で書記の仕事を得たものの、その仕事の傍らベネットは執筆に没頭するようになっていきました。1889年には「ティット・ビッツマガジン」の文芸コンクールで当選し、1894年には雑誌「ウーマン」の副編集長に就任。その後も長編冒険小説『グランド・バビロン・ホテル』や『故郷への手紙』などを執筆し、高い評価を得たベネットは徐々に自分の文才に自信を持つようになっていきます。

(Public Domain/‘Arnold Bennett 1928’ by Unknown author. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1900年からは執筆に専念し、ロンドンから郊外のベッドフォードシャーに居を移し、小説を書きながら両親と暮らす生活を送っていきました。しかし1902年には父のイーノックが死去。その一年後、ベネットはパリに移住し、世界中から多くの芸術家たちが集まっていたモンパルナスやモンマルトルで暮らすようになっていきました。この際マルセル・シュウォッブやモーリス・ラヴェル、サマセット・モームとも交流するようになっています。1908年には『2人の女の物語』を発表。作品はすぐにイギリスで高く評価され、ジョン・ゴールズワジーやハーバート・ジョージ・ウェルズと並ぶエドワード朝を代表する小説家と見なされるようになっていきました。

その後イギリスに戻りクレイハンガー三部作の執筆に取り掛かったものの、第一次世界大戦勃発によりたびたび中断。また対フランスプロパガンダの責任者として情報省に招聘されたこともあり、戦時中執筆は滞りがちでした。

戦後になると再び執筆に取り掛かるようになり、1923年にはジェイムズ・テイト・ブラック記念賞を受賞。書評も精力的に発表するなどの活動を見せていたものの、1931年5月27日には腸チフスのためロンドンのベイカーストリートにある自宅で死去。その生涯を閉じることになります。

■アーノルド・ベネットの作品と作風

アーノルド・ベネットの作品はイギリスの一般人の生活をありのままに描いているのが特徴で、しばしば自然主義的であると称されています。これはベネット自身が市井の平凡な人々の生活こそ小説の主題となると考えていたからであり、そこにはエミール・ゾラやギ・ド・モーパッサンの影響が指摘されています。

こうした作風はベネットが生きた20世紀前半には高く評価されたものの、徐々に登場人物の内面における著述が十分ではないと指摘されており、特にヴァージニア・ウルフはその点を指摘するようになっていました。この結果20世紀においては評価を落としたベネットだったものの、マーガレット・ドラブルによる評伝が発表され多結果徐々に再評価が進み、1990年代からは肯定的な評価が見られるようになっていきました。

そんなアーノルド・ベネットの作品には、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品をご紹介いたします。

・『グランド・バビロン・ホテル』 1902年

※画像はイメージです

本作は1902年に発表された作品で、ドイツ王子の失踪について描かれた物語です。ベネットは本作で高い評価を得ることとなり、小説家としての地位を確立するきっかけとなりました。

アメリカの億万長者セオドア・ラックソールとその娘ネラは最高級ホテルグランド・バビロン・ホテルに滞在していました。ネラは夕食にステーキとビールを注文したものの、その注文が受け入れられることはなく、腹を立てたラックソールはホテル全体を買収してしまうのでした。

そんなグランド・バビロン・ホテルでは奇妙なことが立て続けに起きていました。ウェイターのジュールは娘の友人であるレジナルド・ディモックにウィンクしており、彼らはネラが注文しても受け入れられなかったステーキを食べていたのでした。ラックソールは怒ってウェイターを解任したものの、その後何年もグランド・バビロン・ホテルで働いてきたミス・スペンサーが失踪。また叔父のアリベルト王子と会談することになっていたユーゲン王子が現れず、のちに失踪していたことが判明します。

小さな事件に頭を悩ませていたラックソールだったものの、そこで王子たちの執事だったディモックの遺体が発見され、大騒ぎに。警察を呼ぼうとするものの、その遺体は忽然と消えてしまうのでした。

・『クレイハンガー』 1910年

※ポッタリーズ地区

本作は1910年に発表された作品で、3部作として発表された作品です。ポッタリーズ地区に住んだベネット自身の生活経験をもとに執筆された作品であり、街で暮らす人々の人生が語られていきます。

時はビクトリア朝。エドウィン・ハンガーは学校を卒業し、家業を継ぐべく町に戻ってきていました。父ダリウスは苦労して「5つの町」のひとつであるバーズリーの著名な印刷業者になっていました。エドウィンはそんな父親の苦労を知らず、家族の恵まれた生活は当然のことと考えていました。エドウィンは建築家になることを望んでいたものの、父に却下され、父の会社で働くようになります。その後父が病気にかかって亡くなるまで、父に立ち向かうことはありませんでした。

その後エドウィンはヒルダ・レスウェイズと結婚。最初はそのエキゾチックな魅力にひかれたものの、彼女は従順な妻の役割を演じることはなく、気まぐればかりすることに腹を立てていました。その一方ヒルダはロンドンとブライトンで宿を経営しながら、自由な生活を送っていました。

4作目となる『ロールコール』ではエドウィンの継父であるジョージについて語られていきます。ジョージはかつて建築家として働いていたものの、幼いころから甘やかされていたことで人生を甘んじているところがありました。そんなジョージに大きな問題が降りかかります。

■おわりに

アーノルド・ベネットは1867年5月27日イギリスのスタッフォードシャーに生まれた小説家で、『グランド・バビロン・ホテル』や『クレイハンガー』シリーズを執筆した小説家です。その作品は自然主義的と評価され、20世紀初頭のイギリスではエドワード朝を代表する小説家としてその名声を確立したものの、徐々に登場人物の心理性についての描写が乏しいとして批判されるようになっていきました。しかし現在では再評価が進み、イギリスを代表する小説家のひとりとしてその作品は読み継がれています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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