タイトル:イニエスタ獲得から見えてくる楽天の世界戦略

多くのサッカーファンが予想もしていなかったイニエスタのヴィッセル神戸への移籍。30億円超の年俸も驚きをもって伝えられた。ヴィッセル神戸が巨額の資金を投じてもイニエスタを獲得したかったわけとは。そこからはヴィッセル神戸と親会社・楽天の戦略がうかがい知ることができる。

ヴィッセル神戸、イニエスタの獲得を発表

2018年5月上旬、サッカー界で移籍に関するある噂が世界中を駆け巡った。「バルセロナのイニエスタ、Jリーグ神戸入りか!?」というものだ。この移籍に関する噂は30億円を超える年俸とともに世界のサッカーファンに大きなインパクトを与えた。

もっとも、移籍先に挙げられた神戸のファンはもとより、Jリーグファンの多くは当初、この噂を懐疑的な目で見ていた。SNSには「イニエスタがJリーグに来るわけがない」といった趣旨の書き込みが大半を占めていた。

イニエスタほどの大物の移籍話がにわかに信じられないということは、Jリーグをつぶさに見てきた者の共通意見だっただろう。実際に、Jリーグにはロベルト・バッジョ、アレッサンドロ・デルピエロ、カフー、リバウドなどの世界的名選手の移籍が噂されては実現しなかったという過去がある。

確かに、ジーコやストイコビッチ、ドゥンガなどの名プレーヤーが続々と来日を果たしていた時期はあるものの、それはJリーグバブルに沸いた過去の話。それがJリーグファンにとっての共通認識ではなかっただろうか。

また、近年成長著しい中国経済を背景に、ヨーロッパや南米の有力選手が何十億円という規模の年俸で中国サッカー・スーパーリーグに引き抜かれている現実を、Jリーグファンは隣で見ている。「イニエスタはアジアには来るかもしれないけれど、どうせまた中国だろう」と見ていたファンも多かっただろう。

ところが、大方のJリーグファンの予想は良い意味で裏切られることになった。2018年5月24日、ヴィッセル神戸は正式にイニエスタの獲得を発表した。そして日本人により大きなインパクトを与えたのは、イニエスタが手にする年俸だ。

正式発表ではなく、あくまで噂の域を出ないがイニエスタの年俸は30億円とも33億円とも言われている。欧米では年間に数十億円、数百億円稼ぐプレーヤーはいるものの、日本においては過去に例を見ない金額である。

年俸30億円超というインパクト

イニエスタの年俸30億円超という数字が日本のスポーツ界、ひいては日本の社会にどれほどの衝撃を与えたかは、ほかのスポーツ選手やスポーツチームと比べてみると分かりやすい。

日本では長らく人気№1スポーツと言えば野球だった。当然、プロ野球選手の年俸は他のスポーツ選手に比べると群を抜いて高額だ。その日本のプロ野球で2018年の時点で最も高額な年俸を手にしているのはソフトバンクホークスの柳田悠岐で、その額は5億5000万円と言われている。つまり、イニエスタ1人で、日本で最もメジャーなプロスポーツの最高年俸選手を約6人雇うことができるというわけだ。

また、ヴィッセル神戸の親会社は楽天だが、楽天はプロ野球にも「東北楽天ゴールデンイーグルス」というチームを持っている。この東北楽天ゴールデンイーグルスの選手年俸総額は約28億円と言われている。プロ野球チームの総年俸よりイニエスタ1人の年俸の方が高いわけである。

また、市場規模がプロ野球より小さいJリーグに目を向けてみると、その数字はさらに群を抜くものだということが分かる。

2018年のJリーグの平均選手年俸は約2000万円。チームとして最も選手総年俸が大きかったのはヴィッセル神戸で約17億円。昨年、神戸は約6億円の年俸で世界的ストライカーの元ドイツ代表、ルーカス・ポドルスキを獲得ことで押し上げられているが、それでもイニエスタ1人の約半分の金額だ。

J1の名門、浦和レッズや鹿島アントラーズの総年俸は約11億円、J1で最も予算規模が小さいV・ファーレン長崎にいたっては約3億円の総年俸でチームを運営している。これを見るだけで、イニエスタの年俸が日本社会にどれほどのインパクトを与えたのかが分かるのではないだろうか。

それでは、楽天はなぜここまでの高額を支払ってまで、イニエスタを獲得したのだろうか。年俸30億円超は果たしてペイできるのだろうか。

昨年の退団まで22年間バルセロナ一筋

神戸移籍前のイニエスタは、より好待遇、より高年俸を求めて移籍を繰り返すプロスポーツ選手の中では異例とも言っても良い経歴を辿ってきた。

1984年、スペイン・カスティーリャ・ラ・マンチャ州に生まれたイニエスタは幼少の頃からサッカーに親しみ、1994年、彼が8歳の時に地元のプロチームであるアルバセテ・バロンピエの少年チームに入団した。地元チームでのプレーぶりが認められてFCバルセロナの下部組織に入団したのは12歳の時だった。

イニエスタは、12歳で入団してから昨年34歳で退団するまでの22年間をFCバルセロナ一筋で選手生活を送ってきた。この在籍期間の長さはプロスポーツ選手としては異例と言って良い。そして、その中でイニエスタは数多くの栄誉を手にする。

バルセロナの育成部門で数々の大会で優勝し、さらに個人的にも最優秀選手に幾度となく輝く活躍を見せる。その活躍ぶりからアンダー世代の代表にも召集され、U-17世界選手権、ワールドユース選手権などの各年代の世界大会にスペイン代表選手として出場し、主力として活躍している。

バルセロナのトップチームには、2002-2003シーズンに18歳でデビュー。デビューから数シーズンは控えや途中出場に甘んじていることが多かった。ただ、それもそのはずで、当時のバルセロナにはロナウジーニョ、シャビ、エトーなど、一時代を彩ったスターの全盛時だったのである。いくら才能溢れる若手選手でも簡単には割って入ることができない選手層の厚さがあったのだ。

しかし、イニエスタは少ない出場時間ながら徐々に結果を出し始め、2005-2006年シーズンの後半には完全にレギュラーを掴むことになる。注目に値するのは、イニエスタがレギュラーに定着した2005-2006シーズンからバルセロナが黄金時代を迎える点である。

イニエスタとバルサ黄金期

2005-2006シーズンはリーガ・エスパニョーラ(スペインリーグ)とUEFAチャンピオンズリーグの2冠を達成。2006-2007シーズン、2007-2008シーズンには永遠のライバルであるレアル・マドリードに僅差で敗れるものの、2008-2009シーズンから2011-2012シーズンまで国内リーグ3連覇。さらに2012-13シーズンを制覇、2014-15シーズンから2連覇、1年あいて2017-18シーズンも優勝とイニエスタがレギュラーに定着した12シーズンで実に8度もリーグ優勝を果たしている。そして、ヨーロッパサッカー最高峰の舞台であるUEFAチャンピオンズリーグもこの間、4度優勝している。まさにバルセロナの黄金時代である。

もちろん、イニエスタ一人の力ではなく、歴代でも屈指のスーパースターのメッシ、ほかにもティエリ・アンリ、ズラタン・イブラヒモビッチ、ネイマール、ルイス・スアレスなど、数多くのスーパースターが在籍し、そのスーパースターたちが有機的に作用しあったからこその結果ではある。

しかし、チームが有機的に作用するため、つまり、バルササッカーを実現するためには、イニエスタの果たした役割は他のどの選手より大きいと筆者は考えている。

「バルササッカー」とは、簡単に言えばボールポゼッションを上げて華麗にパスをつなぎ、ゴールを陥れるというものだ。ワンタッチ、ツータッチでパスを回して相手を完全に崩し切ってゴールを奪う、「美しいサッカー」がその最大の特徴である。

このサッカーを実現するには、攻守のつなぎ役である中盤の選手の力量が特にカギを握る。イニエスタは圧倒的なボールキープ力、卓越した戦術眼、創造性豊かなパス能力、瞬時の判断能力など、バルササッカーに必要な要素をすべて高いレベルで兼ね備えている。黄金期のバルセロナにおいて、イニエスタの存在は最も替えが利かないと言えるほど、重要な役割を担っていた。

なぜバルササッカーにとって、イニエスタは最も替えが利かないか――。それは彼が複雑で独特なバルセロナのサッカーを完璧にマスターしており、体現できる力を持っていたからだと考える。バルセロナの育成システムは特徴的で、幼少のカテゴリーからトップチームまでどのカテゴリーでも同じサッカーを推し進められている。その独特さと難しさは、他のクラブのように大人になってから様々な出自を持つ選手を集めても、おいそれとは体現できない。

12歳からバルセロナで育ち、クラブのDNAを受け継ぎ、バルセロナのサッカーを完璧に体現できるイニエスタ。チーム内に太い幹のような役割としてイニエスタが君臨していたからこそ、メンバーが加入・離脱しても、チームが不調に陥りかけても大崩れすることがない、常勝チームが出来上がったのだろう。

バルセロナを目指すヴィッセル神戸

イニエスタの契約が2017-2018シーズンで切れる――。イニエスタの去就はサッカー関係者、サッカーファンの大きな関心事になっていた。2017-2018シーズンのイニエスタのプレーぶりを見てもそのプレーは全盛期のものと変わりない。しかも契約が切れた後なので違約金(移籍金)も発生しない。イニエスタ獲得には世界中のクラブが興味を持ったのは当たり前のことだろう。ヨーロッパはもちろん、アメリカ、中国など様々なチームへの移籍の噂が流れていた。そんな中、イニエスタの心を掴んだのはJリーグ・ヴィッセル神戸だった。

イニエスタは神戸入りの理由として「提示されたプロジェクトが非常に興味深かったからだ」と答えている。「提示されたプロジェクト」の中身について、イニエスタの移籍会見で楽天のCEOでヴィッセル神戸のオーナーである三木谷浩史は次のように答えている。

「イニエスタ選手のキャプテンとしてチームを率いてきた哲学やバルセロナの持つDNAが注入されるような大きな刺激になると思う。イニエスタ選手には、単にチームの力の向上だけでなく、ユース年代のアカデミーのメソッド導入を含め、次世代への育成に大きな期待をしている」

三木谷オーナーが目指しているのが、神戸のバルセロナ化だということがこの言葉から見てとれる。理想のチーム作りの目標をバルセロナに定め、神戸をバルセロナのようなクラブに育てていきたい。イニエスタの獲得には、そんな願いが込められているのだ。

ヴィッセル神戸はイニエスタ獲得を機に、次々に「バルセロナ化」の策を講じていく。まず、監督にファン・マヌエル・リージョを招聘。リージョは、稀代の戦術家として知られ、バルセロナ黄金時代に監督を務めたジョゼップ・グアルディオラが師と仰ぐ人物だ。

さらに、バルセロナでイニエスタとホットラインを築き、チャンピオンズリーグ制覇に大きく貢献したFWダビド・ビジャの来季からの加入も決まった。加えて、この冬の移籍市場で元バルセロナのDFアドリアーノの獲得に動いているという。

また、選手だけでなくコーチ陣もバルサイズムに触れさせるために、育成部門の責任者である平野孝とトップチームのアシスタントコーチを務める林健太郎をバルセロナに研修に送っている。

「バルサの最高傑作」。バルセロナ関係者やファンはイニエスタを表してこの言葉を使う。そのバルサの最高傑作を手に入れたヴィッセル神戸は来期以降、理想を実現するためさらにさまざまな手を打つことは想像に難くない。

楽天グループのアイコンとしてイニエスタの価値

三木谷オーナーは、ヴィッセル神戸というサッカークラブのオーナーである前に楽天グループを率いるCEOだ。スポーツの人というよりはビジネスの人なのである。もちろん、イニエスタ獲得に際してはビジネス面も十分に考慮に入れたものだろう。

「イニエスタ選手はサッカー選手としてだけでなく、現在7400万人のSNSのフォロワー数を誇り、世界的にも大変強い発信力、影響力がある」

イニエスタの獲得会見の際に三木谷オーナーが発した言葉だ。イニエスタがSNSを通して、楽天グループについて発信すれば世界中の7000万人を超える人々の目に触れることができる。イニエスタが自身のユニフォーム姿をアップすれば胸にある「Rakuten」の文字が世界中に発信できる。広告効果は絶大である。

サッカー選手としての価値は言うまでもなく、イニエスタ個人が持っている発信力、影響力、ブランドイメージにも三木谷オーナーは大きな期待を持っているのだ。

さらに、見逃せないポイントがイニエスタの中国での人気の高さだ。中国は世界的に見てサッカー強豪国とは言えないが、国民のサッカー人気は非常に高い。国内リーグは予算規模だけを見れば世界のトップリーグと遜色なく、選手への投資額についてはもはや世界のトップと言っても過言ではない。

そして、国内リーグよりさらに人気が高いのがヨーロッパのサッカーなのだ。チャイナマネーを獲得するためにヨーロッパのビッグクラブはこぞって中国ツアーに出かけ、莫大なグッズ収入、観客収入、スポンサー収入を得ている。中国人が最も好むスポーツイベントについてのアンケートでは2位に大差をつけてFIFAワールドカップが1位になっている。長らく自国が出場できていないにも関わらずだ。

当然、サッカーの人気選手の知名度や影響力は抜群だ。世界でも屈指の人気クラブ、バルセロナの元キャプテンで長くスペイン代表の主力だったイニエスタの人気も非常に高いものがある。

楽天は、巨大市場である中国で苦戦している。中国国内で楽天の知名度は非常に低く、ECサイトでトップシェアを誇るアリババの足元にも及ばない状況が続いている。先日、アリババの1日の取引額が楽天の昨年1年間の取引額を上回ったことが話題になったが、日本と中国では人口の差もあり、もはや市場規模が桁違いなのである。

楽天はイニエスタの中国での影響力や人気を駆使して、少しでも中国市場に割って入ろうとしているのだと言っても良いだろう。

楽天は、実はイニエスタ獲得より前にバルセロナのスポンサーになっている。スポンサー料は年間65億円を超えるもので、サッカー史上最高額のスポンサー契約として世界中でニュースになった。

「年間65億円という金額は、広告宣伝費という考えに立つと、経済効果的にはもう十二分に採算はあっているんです。世界でのブランドの露出効果を考えた場合、実際に広告換算したらいくらになるのかということを考えると、少なくともその数倍の価値はある」

(出典:https://number.bunshun.jp/articles/-/827975?page=2

三木谷オーナーがバルセロナとのスポンサー契約について聞かれたインタビューで答えた言葉だ。イニエスタ獲得は、こうした楽天の世界戦略の一環として考えることができる。

世間ではイニエスタの年俸に関して、驚きを持って伝えられたが、イニエスタの持つブランドイメージ、さらに影響力を考えると決して高すぎる買い物とは言えないだろう。

トヨタの名古屋グランパス、日産の横浜Fマリノスなど、楽天以外にもグローバル企業がスポンサードしているチームはJリーグにはある。こうしたグローバル企業にも楽天のようにもっと積極的に世界的プレーヤーを獲得して欲しいと個人的には感じる。初期のJリーグがジーコやストイコビッチで進化したように、必ず日本のサッカー、ひいては日本のスポーツ全体にとって新たな発見や進歩があるはずである。

いずれにしてもイニエスタがはじめてリーグの初戦から参加することになる来年のJリーグ。ヴィッセル神戸がどのようにバルサ化を果たしていくのか、さらにイニエスタの効果によってJリーグ全体がどのように変わっていくのか。早くも来年のJリーグ開幕が待ち遠しくなってきた。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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