アンジェイ・ワイダ:『鉄の男』『カティンの森』を手掛けた映画監督

(Public Domain/‘Photograph of the Polish film director Andrzej Wajda during his visit to Finland.’ by Anonymous / Lehtikuva. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

アンジェイ・ワイダは1926年3月6日ポーランド島北部スヴァウキで生まれた映画監督です。1955年に映画監督としてデビューしたのちはポーランド社会をテーマとした作品を次々と発表し、ポーランドを代表する映画監督の一人に数えられています。そんなアンジェイ・ワイダの人生と作品について詳しく解説していきます。

■アンジェイ・ワイダとは

(Public Domain/‘Andrzej Wajda na planie “Ziemi Obiecanej”, 1974’ by Unknown photographer. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

アンジェイ・ワイダは1926年3月6日ポーランド島北部のスヴァウキで生まれました。ポーランド軍大尉だった父はドイツ軍と交戦中に、カティンの森事件に巻き込まれて亡くなり、この過去はその後のワイダの人生に多大な影響をもたらすことになります。

第二次世界大戦中には対独レジスタンス運動に参加し、戦後はクラクフ美術大学に進学。その後進路を変えてウッチ映画大学に進学したのち、1955年には『世代』で映画監督デビュー。1957年には第10回カンヌ映画祭で『地下水道』が審査員特別賞を受賞し、徐々に名声を得ていきました。またワイダの作品はポーランドをテーマとした作品を次々と発表したことから、「ポーランド派」の代表する映画監督の一人に数えられています。

1970年には第二次世界大戦後のポーランドを舞台とした『戦いのあとの風景』、1930年代のポーランドを舞台とした『白樺の林』を発表。また1850年代に英雄となった男の末路を描いた『大理石の男』を発表し、ポーランドでは上映禁止処分となったものの、第31回カンヌ国際映画祭では国際映画批評家連盟賞を受賞しました。

1989年に行われた議会選挙では、上院のスヴァウキ選挙区から「連帯」の候補として出馬し当選。1991年まで上院議員を務めました。作品制作はもとより政治でも功績を残していたワイダだったものの、2016年には肺不全を起こしたことにより死去。その生涯を閉じることになります。

■アンジェイ・ワイダの作品

アンジェイ・ワイダの作品の特長は、ポーランド社会における諸問題をテーマとして作品制作に取り組んでいることでしょう。イタリアでは戦後のイタリア社会における諸問題を作品のテーマとするネオレアリズモ運動が盛んになっていましたが、ポーランド派もまたネオレアリズモ運動から大きな影響を受けたことで知られており、ワイダはその中心人物として知られています。

そんなワイダの作品には、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品についてご紹介します。

・『地下水道』 1956年

※画像はイメージです

本作品は1956年に制作された作品で、ワイダの出世作にあたります。第10回カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞し、大きな話題になりました。

第二次世界大戦末期のワルシャワ。ポーランドはドイツ軍によって容赦ない攻撃を浴びせられ、悲惨な段階に達していました。ポーランド国内軍に所属するザドラ中尉は事態打開のため地下水道を通って市の中心部に向かい、活動を続けることにしたもの、暗闇と悪臭は容赦なく兵士たちを恐怖の渦に巻き込んでいき、マンホールから外に出ようとするとドイツ軍に発見され射殺されるという地獄のような状況になっていました。

・『大理石の男』 1977年

※画像はイメージです

本作品は1977年に制作された作品で、その存在を消された労働英雄の男性とその事実を明らかにしようとする映画学校に通う女学生の姿を描いた作品です。ポーランドでは公開されるや否や270万人を動員。海外では2年間の上映禁止処分を受けたものの、第31回カンヌ国際映画祭において無断で出品され、国際映画批評家連盟所を受賞しました。

映画学校の生徒アグニェシュカは1950年代の労働英雄をテーマに卒業制作を作ろうと考えており、そんな際に博物館の倉庫で労働英雄のビルクートの彫像を発見。ビルクートの当時の状況やその後の知ろうと関係者への聞き込みを開始していきます。

ビルクートは1950年代の時代の勢いによって労働英雄に飾り立てられたものの、同僚をかばったために刑務所に送られ、妻とも別れさせられており、悲惨な日々を送っていました。さらにアグニェシュカが1950年代の状況を探ろうとすると、政府からにらまれることを恐れた上司は撮影自体の中止を命令。アグニェシュカは失望するも、ビルクートの息子マチェックに会いに行き、撮影を再開するのでした。

・『ダントン』 1983年

※画像はイメージです

本作品は1983年に制作された作品で、フランス革命の中心的人物ジョルジュ・ダントンとマクシミリアン・ロベスピエールの対立を描いた作品です。第8回セザール賞において作品賞、監督賞、脚色賞、主演男優賞、音響賞の5部門でノミネートされ、監督賞を受賞したことでも話題になりました。

フランス革命のさなかの1794年。ロベスピエールを中心とした公安委員会による恐怖政治を終わらせるべく、ダントンがパリに戻ってきます。公安委員会のメンバーはダントンを粛清するべきと訴えたものの、ロベスピエールはどうにかなだめ、ダントンと交渉に臨むことに。しかしダントンは公安委員会を独裁的な組織として敵視しており、交渉の余地はありませんでした。結局ロベスピエールは公安委員会のメンバーに押し切られる形で、ダントンの粛清を黙認してしまいます。

・『カティンの森』 2007年

※画像はイメージです

本作品は2007年に制作された作品で、第二次世界大戦の間実際に起きた『カティンの森事件』を題材とした作品です。

1939年4月。ドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄。8月にはドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結され、9月にはドイツがポーランドに侵攻。ソ連も侵攻を開始したことにより、ポーランドの人々は恐怖におびえる日々を過ごすことになります。

そんな中クラクフから夫のアンジェイ大尉を探しに来たアンナとその娘ニカは、なんとかソ連に連行される前のアンジェイらポーランド軍将校たちに会うことができ、アンナはアンジェイに逃亡するように懇願。しかし軍への忠誠心からそれを拒否。捕虜として教会に収容されたアンジェイは、これから起こることを手帳に書き留めようと決意します。

1943年独ソ不可侵条約を破ってソ連領に侵攻したドイツ軍は、元ソ連領カティンの森近くで1万数千人のポーランド将校の死体を発見。その後ドイツが敗北したのち、カティンの森事件はソ連によってドイツ軍の仕業であるとされ、事件の真相に触れることはタブーとなっていきました。

■おわりに

アンジェイ・ワイダは1926年ポーランドのスヴァウキに生まれた映画監督で、ポーランド派を代表する映画監督の一人に数えられている人物です。その作品はポーランド社会はもちろん、戦前戦後の混乱における人間性を描き出しており、映画史の残る傑作といえるでしょう。ポーランド映画に関心のある方は、ぜひワイダ作品を鑑賞してみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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