アンドリュー・カーネギー:鋼鉄王

(Public Domain/‘Andrew Carnegie, American businessman and philanthropist.’ by Theodore C. Marceau. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

アンドリュー・カーネギーは1835年11月25日スコットランドのダンファームリンに生まれた実業家です。崩れ行く橋を見てカーネギー鉄鋼会社を創業し、史上2番目の富豪となったことで知られ、また教育や文化に多くの寄付をして慈善活動家として活動したことで知られています。そんなアンドリュー・カーネギーの人生について詳しく解説していきます。

■カーネギーの幼少期

(Public Domain/‘Andrew and Thomas Carnegie – Project Gutenberg eText 17976’ by Unknown author. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

アンドリュー・カーネギーは1835年スコットランドのダンファームリンに生まれました。父親は織物業で生計を立てており、生家の一階の半分は手織り職人と共有するという生活を送っていました。

そんなカーネギーが子どもの頃母親と共に市場に買い物に行くと、果物家の店先には山積みされていたさくらんぼがあり、店主から「さくらんぼをひとつかみ分だけサービスしてあげよう」といわれたというエピソードが残っています。しかしカーネギーがさくらんぼをつかむことはなく、店主は不思議そうな顔をしながらもさくらんぼをつかんでカーネギー少年の帽子にいれてやり、親子は帰路に就くことになります。母親がなぜさくらんぼを取らなかったのかと聞くと、自分の手より店主の手の方が大きいから取らなかったと述べたというエピソードが残っています。これは幼少時からカーネギーが計算高い人物であったことを示す一例とされています。

■アメリカ移住

※画像はイメージです

しかしそんなカーネギー家にも問題が差し迫っていました。当時イギリスの織物業は蒸気機関を使用した工場に移りつつあり、手織り職人の仕事は亡くなってしまっていました。そのためカーネギーの両親は1848年にアメリカへの移住を決め、ペンシルバニア州アラゲイニーに移住。移住費用も借金しなくてはならなかったため、カーネギーは13歳でボビンボーイの仕事に就くことになり、1日12時間週6日の仕事をこなしていきました。

その後叔父の薦めで1805年にオハイオ電信局で電報配達の仕事に就くと、精力的に働き、ピッツバーグの企業ので知られた存在になっていきました。また電信局では受診したモールス信号を耳で聴き分ける特技を身に着け1年で電信技士に昇格。またジェームズ・アンダーソン大佐が開放していた蔵書を元に勉強し続け、重労働をいとわない忍耐力と知性を身に着けていきました。

1853年にはペンシルバニア鉄道のトーマス・アレクサンダー・スコットによって秘書兼電信士として雇われることになり、18歳のときにはピッツバーグの責任者に昇進。この際スコットから経営と原価管理について多くを学び、経営の基礎を身に着けていきました。

■南北戦争

(Public Domain/‘Andrew Carnegie circa 1878 – Project Gutenberg eText 17976’ by Unknown author. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

カーネギーの会社は急成長を遂げ、ウードルフの会社とジョージ・プルマンの会社を合併。また借金して寝台車のための会社に出資したことが大成功となり、そうして得た資金を鉄鋼業やレール製造業などに再投資していきました。

南北戦争の際には軍隊輸送の責任者に任命されたスコットから東部の軍用鉄道と合衆国政府の電信網監督に任命され、南軍によって寸断されたワシントンまでの鉄道路線の再建を支援。この働きは北軍を有利な方向に傾け、戦争における産業の重要性が知られる一因になりました。

南北戦争終結後にはペンシルバニア鉄道を退職し、製鉄業に専念。製鋼にベッセマー法を取り入れたことにより鋼を大量かつ安価に生産できるようになり、橋や建築用の垳や梁、鉄道レールなどにも鋼が用いられるようになっていきました。1892年にはカーネギー鉄鋼会社を創業し、1889年にはアメリカの鋼生産量はイギリスを抜き、カーネギーはアメリカでも有数の富豪になっていました。

■篤志家としての活動

(Public Domain/‘Andrew Carnegie at Skibo Cadstle 1914 – Project Gutenberg eText 17976’ by Unknown author. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1901年になると、カーネギーは引退を決意。その準備として会社を株式会社化することになりますが、その際カーネギーを助けたのは銀行家のジョン・モルガンでした。モルガンは鉄鋼業界を統一することでコスト削減と労働賃金上昇が可能になると考えており、カーネギーの会社や他の会社を合併させ、1901年3月2日には時価総額10億ドルを超える史上初の企業USスチールが誕生することになります。

引退後のカーネギーは篤志家として活動しました。スコットランドのスキボ城とニューヨークを生活の拠点都市、アメリカやイギリス、他の英語圏の国々に公共図書館を設立。アメリカ47州、カナダ、イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、西インド諸島、フィジーに建設されました。

また1901年にはカーネギーが寄付した200万ドルでピッツバーグにカーネギー工科大学が創設され、1902年にはワシントン・カーネギー協会が設立。また1901年にはスコットランド・カーネギー基金が設立され、スコットランドの4大学に補助がなされることになりました。そのほかにもブッカー・T・ワシントンが黒人教育のために創設したタスキーギ職業訓練校に支援したことは特筆するべきといえるでしょう。

■カーネギーの死

そうして篤志家としての活動に精力的に取り組んでいたカーネギーでしたが、1919年8月11日には気管支肺炎のためマサチューセッツ州レノックスで死去。83歳の生涯を閉じることになります。遺産として残された3000万ドルも基金や慈善団体に遺贈されることになり、アメリカの繁栄を後押しすることになります。

■カーネギーの哲学

カーネギーは33歳の時「蓄財は偶像崇拝の悪い種の一つだ。金銭崇拝ほど品位を低下させる偶像はない」と書き残しており、35歳のときには引退して慈善活動を行うと述べていました。実際に慈善活動を行うことになったのは1881年のことでしたが、スタンフォード大学の創設者スタンフォードを模範として活動することを理想としていました。

こうしたカーネギーの哲学は、1908年当時ジャーナリストだったナポレオン・ヒルに500人以上裕福な成功者にインタビューして成功の共通点を見つけるよう取り計らったことで執筆された『思考は現実化する』『成功哲学』などに記され、全世界で読まれ続けられています。

■おわりに

アンドリュー・カーネギーは1835年スコットランドに生まれ、アメリカを代表する「鉄鋼王」として活動した人物です。勤勉さと絶え間ない努力で傷心を重ね、鉄道への投資でひと財産を築いたのち、篤志家として活動。その名前はカーネギー研究所やカーネギーメロン大学、カーネギー博物館などに引き継がれています。ビジネスパーソンとして働く方は、ぜひカーネギーの著書やインタビューを読んでみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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