イェジー・カヴァレロヴィッチ:ポーランドを代表する映画監督

(Public Domain/‘Portret reżysera filmowego Jerzego Kawalerowicza.’ by Benedykt Jerzy Dorys. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

イェジー・カヴァレロヴィッチは1922年1月22日ポーランドのスタニフワヴフに生まれた映画監督です。『夜行列車』や『尼僧ヨアンナ』といったポーランド映画史に残る作品を制作しました。またポーランドの民主化運動連帯に関係する映画人を批判する共産党政府の文書に署名したことでも有名です。そんなイェジー・カヴァレロヴィッチの人生と作品について詳しく解説していきます。

■イェジー・カヴァレロヴィッチとは

※画像はイメージです

イェジー・カヴァレロヴィッチは1922年1月19日ポーランド、スタニスワヴフ県グヴォジヂェツに生まれました。クラクフ美術大学に入学し、卒業後はレオナルト・ブチュコフスキやヴァンダ・ヤクボフスカのもとで助監督をつとめ、1952年には長編『Gromada』で映画監督としてデビューすることになります。

1954年には『セルロース』と『フリギアの星の下で』の二部作を発表。当時は社会的リアリズムが支配的であったものの、ステレオタイプを避けた作品制作に成功し、徐々に名前を知られていくようになります。1955年には映画製作会社カドルの芸術監督に就任し、1959年の『夜行列車』はヴェネツィア国際映画祭でジョルジュ・メリヤス賞を受賞するなど、高い評価を得ました。

1961年にはヤロスワフ・ヴァシュキェヴィッチの小説を映画化した『尼僧ヨアンナ』を発表。国内の評価はあまりよくなかったものの、第14回カンヌ国際映画祭で審査委員特別賞を受賞し、1966年には『太陽の王子ファラオ』でアカデミー外国語映画賞にノミネートされるなど、国際的な評価も高めていきました。

しかしその一方で1983年にはポーランドの民主化運動である連隊に関する映画人を批判する共産党政府の文書に署名したことで、同じくポーランドの映画監督であるアンジェイ・ワイダやクシシュトフ・ザヌーシとは袂を分かつことになり、最後までカヴァレロヴィッチの制作に影響を及ぼすことになります。

2007年12月27日にはワルシャワで死去。85歳の生涯を閉じることになります。

■イェジー・カヴァレロヴィッチの作品

カヴァレロヴィッチの作品の特長は人間に対する関心が強く、状況と登場人物の内面から作品を作っていた点でしょう。よく比較されるアンジェイ・ワイダは政治や歴史に関心を持っていたとされ、人間の感情的な面から作品を制作していたのはカヴァレロヴィッチの特長といえるでしょう。

そんなカヴァレロヴィッチの作品には、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品についてご紹介します。

・『太陽の王子 ファラオ』 1970年

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本作品は1970年に描かれた作品で、ファラオになるべくして生まれた若者がその才気にも関わらず、周囲の陰謀によって悲劇的な最期を遂げる作品です。本作品はアカデミー外国語映画賞にノミネートされ、大ヒットを記録しました。

紀元前11世紀。エジプト王家の力は日々衰退しており、ファラオの子で王子でもあるラムセスはそんな状況を歯がゆく思っていました。ラムセス王子はファラオの権威を取り戻すことを誓っていましたが、主権を握っている神官たちの長大僧正のヘアホーはそんな王子を心配していました。ラムセスはそんな周囲の心配をよそに演習中に見かけたユダヤ女サラを宮殿に連れて帰り、妾にしてしまいます。

その一方で神官たちはファラオの許しなしに隣国アッシリアと不利な条約を結んでしまい、それを知ったフェニキアの商人たちは二国間で戦争を起こすことを望んでおり、王子をそそのかすために女司祭カーマを妾として送り込みます。ラムセスはカーマの妖しい魅力に見せられていきます。

やがてサラの元には男の子が生まれ、ヘアホーはその子を将来イスラエルの王にするためユダヤの名前をつけるようにさらに命じたものの、ラムセスはファラオの孫がユダヤの名前を持っていることを許せず、サラと子どもを奴隷小屋にうつしてしまいます。

そんな中リビア人の反乱がおき、王子は司令官に任命されます。ラムセスはみごとリビア人を打ち破ったものの、その間にカーマが王の影武者ライコンと駆け落ちし、サラと子どもがライコンに殺されるという事件が発生します。

・『尼僧ヨアンナ』 1960年

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本作品は1960年に制作された作品で、ヤロスワフ・イワシキエウィッチの『天使たちの教母ヨアンナ』を映画化した作品です。

舞台は17世紀のポーランド。辺境の寒村にある尼僧院の院長尼は美しい教母で、周囲の信頼を集めていました。しかしそんなヨアンナに悪魔が乗り移り、十数人の修道女たちもヨアンナにならって悪魔のダンスを踊りだすようになってしまいます。人々は前の教区司祭ガルニエツ神父が魔法使いで、夜な夜なヨアンナの寝室に侵入しヨアンナに悪魔を乗り移らせたのだと噂し、ついにガルニエツ神父は火刑に処せられてしまいます。

しかしヨアンナの悪魔は退散することはなく、大司教はスリン神父を派遣。広間に通されたヨアンナと対面したスリンは二人で心を込めて神に祈れば悪魔は必ず離れるとヨアンナに説いたものの、突然ヨアンナの魚層が変わり、悪魔の言葉を吐き出すようになってしまいます。その様子を目の当たりにしたスリンはヨアンナと共に苦行を続けることにしたものの、その行為は徐々に快楽を伴うものになっていき、スリンは自信を失ってしまいます。スリンは悩んでユダヤ教司祭のもとを訪れるものの、司祭はキリスト教に対して根本から反論し、かえってスリンは悩みを深めることになってしまいます。

・『夜行列車』 1959年

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本作品は1959年に制作された作品で、夜行列車に乗り合わせたさまざまな人々の人生模様を描いた作品です。

ポーランド中心部の駅から発射する夜行列車は翌朝バルチック海岸の街に到着する汽車であり、その汽車に乗ろうとする人々でホームは混雑していました。黒メガネの男イェジーは切符を持っていなかったものの、強引に乗船してしまいます。その一方美しいマルタとその恋人スタシェックはその愛を生産するべく旅行に出ることになります。

既に汽車は走り出してしまったため、やむなく女車窓はイェジーに16号寝台券を与えたものの、その部屋にはマルタが乗っており、やむなく二人は同室で過ごすことになります。スタシェックは普通車から「すぐ帰ってこい」という手紙を渡し、スタシェックはマルタの乗る寝台車の窓をたたいては戻るように訴えます。そんな中突然汽車が止り、殺人犯が16号室にいるということで警官たちが乗り込んできます。

■おわりに

イェジー・カヴァレロヴィッチは『尼僧ヨアンナ』や『太陽の王子ファラオ』といったポーランド映画史に残る作品を制作した映画監督で、その登場人物の内面をリアルに描いていく描写は国内国外問わず高い評価を受けました。しかしその一方で共産党政府に協力する姿勢を見せるなど、同時代のポーランド映画監督たちからは袂を分かつこととなり、共産主義国が崩壊してからの作品はいずれも高い評価を得るには至りませんでした。

カヴァレロヴィッチがもし民主化運動に賛同していたら、どのような作品が生まれていたのでしょうか。その後のポーランド映画も変わっていたかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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