ウィリアム・ワイラー:『嵐が丘』『ローマの休日』を手掛けた映画監督

(Public Domain/‘Publicity portrait of director William Wyler’ by Film studio. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ウィリアム・ワイラーは1902年7月1日ドイツのミュールハウゼンに生まれた映画監督です。第一次世界大戦後に渡米し、1925年には映画監督デビュー。『嵐が丘』や『ローマの休日』をはじめとした映画史に残る作品を手がけました。そんなウィリアム・ワイラーの人生と作品について詳しく解説していきます。

■ウィリアム・ワイラーとは

※画像はイメージです

ウィリアム・ワイラーは1902年7月1日ドイツのミュールハウゼンに生まれました。父親はユダヤ系スイス人、母親もユダヤ系ドイツ人で小物屋を営んでいました。しかし家業を継ぐことを嫌ったワイラーは音楽を学ぶためにフランスのパリに向かったものの、挫折。結局母方の遠い親戚を頼って、第一次世界大戦後の1920年には18歳で渡米。ユニバーサルのニューヨーク本社で雑用係として働きながら、キャリアを積んでいくことになります。

その後小道具係や配役係、助監督と下積み時代を経て1925年には映画監督に昇進。1936年には『孔雀夫人』を発表して第9回アカデミー賞で作品賞、監督賞を含む7部門にノミネート。1939年には『嵐が丘』、1940年には『偽りの花園』などの作品を発表し、徐々にその名声を高めていきました。

1942年には戦意高揚を目的としたプロパガンダ映画『ミニヴァー夫人』がアカデミー作品賞と監督賞を含む6部門を獲得。1950年前後にハリウッドに吹き荒れた赤狩りに対しては、最後まで誠実な姿を示すなど、高潔な姿を見せました。

1959年には『ベン・ハー』を公開。同作は大ヒットを記録しただけでなく、アカデミー賞では作品賞を受賞。またワイラーはアカデミー賞3回受賞、ノミネート12回という偉業を達成しており、この記録はいまだに破られていません。

その後も精力的に作品制作に励むも、1981年ロンドンで開かれた映画祭に出席して帰国した際に心臓マヒを起こして死去。79歳の生涯を閉じることになります。

■ウィリアム・ワイラーとは

ウィリアム・ワイラーは「ナインティ・テイク・ワイラー」とあだ名されるほど、自分が納得するまで撮影を重ねたことで知られています。時には90回の撮影をすることもあり、俳優とスタッフたちに要求を重ねたことに加えワイラー自身が完璧な英語を操れなかったこともあり、ワイラーは彼らと軋轢を起こすこともしばしばでした。しかしその分作品の完成度は高く、批評家たちには絶賛されています。

そんなウィリアム・ワイラーの作品には、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品についてご紹介します。

・『孔雀夫人』 1936年

(Public Domain/‘Theatrical release poster of the 1936 film Dodsworth.’ by Illustrator unknown; “© 1935 by the United Artists Corporation.”. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1936年に制作された作品で、シンクレア・ルイスの小説を映画化した作品です。1990年にはその歴史的価値が評価され、アメリカ国立フィルム登録簿に登録されました。

サム・ダズワースはアメリカの中西部の工業都市ジーニスで20年間経営してきた自動車会社を売却。売却に至った理由は事業に行き詰まりを感じていたのと、一人娘のエミリーも結婚したので第二の人生を謳歌すべくヨーロッパに旅行したいと考えていたためでした。

サムは妻フランとともに豪華客船クイーン・メリー号に乗り込んだものの、妻のフランは正直者であるもののどこか愚かさのある人物で、見栄っ張りから派手なドレスを着て貴族の男たちと軽薄な振る舞いばかりをしていました。そんな妻の愚行に目をつぶりながら、サムは夜の船のデッキでひとときを楽しむものの、そこで教養豊かな婦人イーディスと出会ったことからその運命は一変してしまいます。

・『嵐が丘』 1939年

(Public Domain/‘Theatrical poster for the 1939 film Wuthering Heights’ by Scan via Heritage Auctions. Cropped from original image.. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1939年に制作された作品で、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を映画化した作品です。

吹雪で道に迷ったロックウッドは、紆余曲折を経て「嵐が丘」と呼ばれる館にたどり着き、なんとか一晩泊めてもらえることになります。その館には主人のヒースクリフと妻のイザベラが使用人と暮らしていたものの、屋敷に漂う陰気な空気にロックウッドは不気味さを感じていました。

その夜ロックウッドは敗れた窓の外からヒースクリフを呼ぶ女の声を聞き、そのことを話すとヒースクリフは「キャシー!」と叫んで吹雪の戸外に飛び出してしまうのでした。取り残されたロックウッドは館の家政婦エレンから「嵐が丘」にまつわる悲劇を聞くことになります。

「嵐が丘」の元の持ち主だったアーンショーは慈悲深い男性で、貧しい孤児を保護するとヒースクリフと名付けて慈しみ育てたものの、跡取り息子であるヒンドリーは彼を憎み、父が亡くなったのちはヒースクリフを馬丁として酷使するのでした。しかし娘キャシーはヒースクリフを愛しており、ヒースクリフもまた身分の違いを感じながらも彼女に牽かれていました。

成長したキャシーは上流階級に憧れ、裕福なエドガーに求婚されたことから有頂天に。そんなキャシーを見たヒースクリフは館を飛び出し、行方をくらましてしまいます。キャシーとエドガーが結婚すると、ヒースクリフは成功した裕福な紳士として館に戻り、ヒンドリーの借金を肩代わりすることで「嵐が丘」の当主の座を手にいれます。次にエドガーの妹イザベラと結婚しながらキャシーに愛を語り続け、キャシーは悩み苦しみ亡くなってしまいます。

エレンの話が終わったころ、医師のケネスが「嵐が丘」に駆け付け、吹雪の荒野でヒースクリフと女の二人連れを見つけたものの、追いつくとヒースクリフが一人で死んでいたと語り、場は騒然となります。しかし事情を知るエレンはようやく愛し合う2人が一緒になったことに、喜びをかみしめるのでした。

・『ローマの休日』 1953年

(Public Domain/‘Theatrical poster for the American release of the 1953 film Roman Holiday.’ by Designer unknown. “Copyright 1953 by Paramount Pictures Inc.”. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1953年に制作された作品で、イタリアのローマを表敬訪問した王女と新聞記者の一日の恋を描いた作品です。本作でオードリー・ヘップバーンがアカデミー賞最優秀女優賞を受賞したことでも話題になりました。

古い歴史と伝統を持つ国の王女であるアンは、ヨーロッパ各国を表敬訪問中だったもの、最後の大罪国であるイタリアのローマで過密スケジュールや自由のない生活への不満により、かんしゃくを起こしてしまいます。その夜城を抜け出した王女は、事前に撃たれていた鎮静剤のせいで街のベンチでうとうとし始めてしまい、それを見かねたアメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレーは王女を介抱。王女はいつの間にかジョーのアパートまでついてきてしまい、寝てしまいます。

彼女の正体に気が付いたジョーは「王女の秘密のローマ体験」という大スクープをものにしようと王女を連れ出したものの、ローマの街を自由に行き来する中でその仲は徐々に近づいていくのでした。

■おわりに

ウィリアム・ワイラーは1902年7月1日ドイツのミュールハウゼンに生まれた映画監督で、『嵐が丘』や『ローマの休日』をはじめとした大作を手がけたことで知られる人物です。これを機にぜひワイラーの作品を鑑賞してみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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