ウォルト・ディズニー:「ディズニーリゾート」の創設者

ウォルト・ディズニーは1901年12月5日アメリカ合衆国イリノイ州シカゴに生まれたアニメーターです。世界的に有名なアニメーションキャラクター「ミッキーマウス」をはじめとしたキャラクターを生み出したことで知られており、ウォルト・ディズニー・カンパニーを設立したことで知られています。そんなウォルト・ディズニーの人生について詳しく解説していきます。

■ウォルト・ディズニーの幼少期

※アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ

ウォルト・ディズニーは1901年12月5日アメリカ合衆国イリノイ州シカゴに生まれました。父はユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員イライアス・ディズニ―、母はドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールで、ディズニーは4番目の子どもでした。父親のイライアスは子どもたちに対して愛情に書ける厳格な態度で接しており、また転職を重ねてもなかなか成功することはなく、貧乏な生活を送っていました。

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そんな家庭で育ったディズニーは少年時代から絵を描くことやアートそのものに興味があり、7歳のときには自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたほどでした。その後父の仕事の関係でシカゴに戻ることになったディズニーは、地元のマッキンリー高校に通いながら当時無名だったアカデミー・オブ・ファインアーツ専門学校の夜間部コースで絵を学ぶことになり、朝4:30に起床して新聞配達の仕事をして学校に行っては、放課後に再び配達の仕事に戻るというハードな毎日を送っていました。

第一次世界大戦が勃発しアメリカが参戦すると、ディズニーは高校と美術学校を退学し、陸軍に志願。この時16歳だったため軍に志願するには年齢が1歳足りず、軍に説得されて赤十字社の衛生兵として輸送に従事。その後大戦が終結すると帰国し、新聞で漫画を描く仕事を請け負うことになります。しかし当時新人に過ぎなかったディズニーへの仕事は多くなく、見かねた兄のロイの口添えでペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオの広告デザインの仕事をウォルトに紹介。ここでディズニーは生涯の友人となるアブ・アイワークスと知り合い、2人は新しい創作活動を始めることになります。

■アニメーターへ

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ふたりはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創設し、共同経営者となったものの、ディズニーはカンザスフィルム社にアニメーターとして雇用されたため、会社が長続きすることはありませんでした。

カンザスフィルム社では短編アニメの作画を担当する中でアニメーターとしての資質に目覚め、徐々にアニメーション制作に没頭するようになっていきます。1920年には個人事務所を設立し、フリーランスの制作者として仕事を募集。カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンから初のオリジナルアニメ作品「ニューマン劇場のお笑い漫画」を制作し、大成功をおさめます。これによってディズニーの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込むようになっていきました。徐々に個人製作では追いつかない規模になってきたため、アブ・アイワークスやヒュー・ハーマン、ルドルフ・アイジングなどのアニメーターを呼び寄せ、多くの作品を制作していきました。しかしメンバーは制作に没頭するあまり、資金のやりくりが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産。倒産後の整理を終えたディズニーは再起を図って映画産業の本場ハリウッドに移住することになります。

■ディズニーの設立

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ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーとともにカンザス時代に制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編を販売する「ディズニー・ブラザーズ社」を設立。以前のようにアニメーター仲間を集めて制作した「アリス・コメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていきました。その後ディズニー・ブラザーズはアニメーション制作会社に転身。これが今日に至るディズニー社の設立とみなされています。

1927年にはチャールズ・B・ミンツの紹介でユニバーサル・ピクチャーズとつながりを得て、「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案。オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作し、シリーズはスタートと同時に大ヒット。一躍ディズニー社が躍進するきっかけを作りました。

しかし1928年になってチャールズ・B・ミンツとの契約料の取引に臨んだディズニーは、法外な配給手数料を支払うよう要求されてしまいます。ディズニーがこれを拒否すると、社員の引き抜き工作が行われるようになり、アイワークスをはじめとしたほとんどのアニメーターが引き抜かれることになってしまいます。ディズニー社は破産寸前に追い込まれるも、あきらめきれないディズニーは仕事を続けました。

■ミッキーマウスの誕生

会社再建にあたり、オズワルドに代わる新しいキャラクターとしてディズニーは「ミッキーマウス」を提案。ネズミのキャラクターはオズワルドやアリスコメディの中でたびたび適役として登場されていたものの、動かすことを念頭に置いたアレンジを加えたことにより、「ミッキーマウス」が完成します。

ディズニーによる演出とアイワークスの作画によってミッキーマウスが大人気キャラクターになったことにより、オズワルドの人気は次第に低下。1930年代には完全にとってかわられることになります。

■ディズニーリゾートの建設

ディズニーはこうしたアニメーション作品の制作に加えて、1948年頃からテーマパークの建設を具体化させていきました。これは娘たちを遊園地に連れて行った際に手持無沙汰な親の姿を見て、「大人も楽しめるテーマパークの建設」を思い立ったもので、趣味である鉄道模型の制作もまたそのインスピレーションにつながったといわれています。

1954年には各企業や市民にテーマパークの建設を売り込むために、「ディズニーランド」というタイトルのテレビ番組の放送を開始。ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介を行ったことにより、一躍注目を集めることに成功します。そして1955年7月17日にはディズニーランドがオープン。ディズニー社の経営の柱の一つとなっていきました。

1966年12月15日には肺がんによる肺炎により死去。ディズニー・ワールドの完成を観ないまま65歳の生涯を閉じることになります。直後に発行されたフランスの週刊誌パリマッチでは、表紙にミッキーマウスが描かれ、38年間めったに見せなかった涙を流したのでした。

■おわりに

ウォルト・ディズニーは1901年12月5日にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴに生まれたアニメーターで、ディズニー社を設立したことで知られています。度重なる経営危機にもかかわらず、世界的な企業にまで成長したディズニー社成功の秘訣は、なんといってもディズニーが夢をあきらめなかったことといえるでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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