ココ・シャネル:20世紀を代表するデザイナー

(Public Domain/‘Gabrielle “Coco” Chanel, 1920’ by Time / Getty. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ココ・シャネルは1883年8月19日フランス共和国のメーヌ=エ=ロワール県ソミュエールに生まれたデザイナーです。シャネルが創設した「シャネル」ブランドは現在世界有数のファッションブランドとなっており、女性のファッションに革命をもたらしたことでも知られています。そんなココ・シャネルについて詳しく解説していきます。

■ココ・シャネルの幼少期

(Public Domain/‘Gabrielle (Coco) Chanel poses in a sailor top in the interwar period [1928].’ by Unknown author. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ココ・シャネルは1883年8月19日フランスのメーヌ=エ=ロワール県ソミュールの修道女会が運営する慈善病院で生まれました。父アルベールは各地を回って作業着や下着を売り歩く行商人で、母ウジェニーは洗濯婦として働いていました。一家は両親と二男三女で質素に暮らしていたものの、母が12歳の時に死去。シャネルは聖母マリア聖心会に預けられることになってしまいます。孤児院での生活は厳しく質素なものであったものの、そこで裁縫を学んだことはのちのシャネルの人生に大きな影響をもたらすことになります。

6年間裁縫を学んだ後にシャネルは仕立て屋で職を見つけ、その傍ら副業としてキャバレーで歌手としても働いていました。給料は出なかったため、テーブルを回ってチップを集めなくて放たなかったものの、この時「ココを見たのは誰」という名前をよく歌っていたため、「ココ」と呼ばれるようになっていきました。1906年には温泉リゾート地ヴィシーを訪れ、芸で身を建てることを目指したものの、失敗。結局ムーランの「ラ・ロトンド」に戻ることになります。

■「シャネル」創業

その後裕福なイギリスの上流階級出身だったボーイ・カペルと関係を持ったことをきっかけに、1913年には家ペルの資金提供でドーヴィルにブティックを開業。レジャーやスポーツに適した豪華でカジュアルな服装を打ち出しましていきました。シャネルは帽子やジャケット、セーター、そしてセーラーブラウスのマリニエールなどを販売し、徐々に評判になっていきました。

1918年には事業を拡大しカンボン通りの31番地に新店舗を開店し、1919年には職業を「クチュリエ―ル」として、また店舗を「メゾン・ド・クチュリエ―ル」として登記。1921年からは衣服や帽子に合ったアクセサリーやジュエリーも販売するようになっていきました。

■シャネルの交友関係

※画像はイメージです

シャネルの斬新なデザインはパリの社交界にも評判となり、シャネルの交友関係は徐々に幅広くなっていきます。1920年の春にはバレエ・リュスの団長セルゲイ・ディアギレフによってロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーと出会うことになります。当時ストラヴィンスキーはソヴィエト連邦から逃れ、カリの住まいを探しているところでした。シャネルはストラヴィンスキーをパリ郊外の新居に招待し、ストラヴィンスキーは1921年の5月まで滞在することになります。

また当時パリで活躍していたパブロ・ピカソやジャン・コクトー、もっとも親しい友人となるミシア・セールや詩人ピエール・ルヴェルディに加え、イギリスの貴族との関係を通じて上流階級とも交流するようになっていきました。

■映画用のデザイン

※画像はイメージです

また1931年にはモンテ・カルロ滞在中共通の友人であったドミトリー・パヴロヴィッチ大公を通じて映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンと知り合い、MGMのスターたちのための衣装デザインを担当することになります。

既にヨーロッパで名声を博していたシャネルのハリウッド訪問は大きな話題となり、グロリア・スワンソンやアイナ・クレアの衣装を担当したほか、グレタ・ガルボとマレ―ネ・ディートリッヒはその才能にほれ込み個人的顧客となるほどでした。

しかしシャネルのデザインはハリウッドにおいて成功したとは言えませんでした。俳優たちの中にはシャネルの衣装を身に着けることに抵抗を示すものもおり、アメリカのハリウッド文化に適したものではなかったのです。シャネルのハリウッド進出は失敗に終わったものの、「シャネル」ブランドにとっては大きな宣伝となり、またシャネル自身ハリウッドで写真映りを学んだことは大きな進歩であったといえます。

■第二次世界大戦

(Public Domain/‘German Nazi officers parading in the deserted Foch avenue, Paris, France (1940). Screenshot taken from the 1943 United States Army propaganda film Divide and Conquer (Why We Fight #3) directed by Frank Capra and partially based on, news archives, animations, restaged scenes and captured propaganda material from both sides.’ by Frank Capra (director), U.S. War Department. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1939年アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツがポーランドに侵攻すると、フランスはイギリスと共にドイツに宣戦布告。戦争がはじまるとシャネルは突如ブティックを閉め、お針子を全員解雇。この理由は1936年にストライキを行った従業員への報復であると見られています。

1940年にはパリが陥落し、シャネルはパリ駐在の外交官ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲと交流するようになっていました。そのほかにもドイツ軍人と交流を重ねていたことは、戦後になって大きな問題となり、シャネルは長らくその問題を引きずらなくてはなりませんでした。

■戦後

戦時中のシャネルはこうしてファッション界から身を引いていたものの、戦後数年スイスで過ごした後パリに戻りカムバック。戦後もファッションデザイナーとして新しいデザインを提案し続け、世界的なブランドとなっていきました。そして1971年1月10日には87歳でその生涯を閉じることとなります。

■シャネルの功績

1915年には『ハーパーズ・バザー』によって絶賛されていたシャネルのデザイン。シャネルの一番の功績はコルセットで締め付ける女性のシルエットが葬られたということでした。加えてシャネルは婦人服に革新的な影響をもたらし、その影響は現代にまで及んでいます。そんなシャネルの主たる功績について詳しく解説していきます。

・ジャージー生地

(Public Domain/‘Illustration showing three women in day outfits by “Gabrielle Channel” (sic) consisting of belted tunic jackets and full jersey skirts for March, 1917’ by Unknown author. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ジャージー生地とは機械編みの素材であり、もともとは靴下やスポーツウェアに使用されていました。またニット構造が取り扱うには難しく、デザイナーたちからは敬遠されていた素材でもありました。しかしシャネルがジャージー素材を取り入れたことは、第一次世界大戦で素材が不足していたことに加えて、女性たちがよりシンプルで動きやすい服を求めていたという時代の背景も後押しし、一大ムーブメントとなることになります。

・リトル・ブラック・ドレス

ジャージーのスーツに加えて有名なのがリトル・ブラック・ドレスで、それまでは喪服として扱われていた黒一色のドレスをシャネルが洋装として発表したことにより有名になったドレスです。欧米やアメリカでは特に好まれ、女性の必需品とされています。

■おわりに

ココ・シャネルは1883年にフランスに生まれたデザイナーで、20世紀を代表するファッションデザイナーのひとりです。ジャージー生地のスーツやリトル・ブラック・ドレスなどファッション界への貢献は大きく、「タイム」誌はシャネルを20世紀のもっとも重要な100人として認定しています。

辛い境遇からも一人ブランドを築き上げ、「シャネル」を世界に広めたココ・シャネル。そのタフな精神はビジネスパーソンも学ぶところがあるといえるでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧