サマセット・モーム:『月と六ペンス』を執筆した小説家

サマセット・モームは1874年1月25日フランス、パリに生まれた小説家です。第一次世界大戦中は医師として従軍したのち、1919年には『月と六ペンス』を発表。その平明な文体が評判となり、作家としての地位を確立。その後も数々の作品を発表し、イギリスを代表する小説家となっていきました。そんなサマセット・モームの人生と作品について詳しく解説していきます。

■サマセット・モームとは

※現代のフランス・パリ

サマセット・モームは1874年1月25日フランス、パリに生まれました。父ロバートはイギリス大使館に勤める顧問弁護士で、母メアリーもまた軍人の娘でパリ社交界の花形とモーム自身、上流階級に属していたものの、8歳の時に母が肺結核で、10歳の時には父が癌で亡くなったことにより、モームは叔父のヘンリー・マクドナルドのもとに引き取られることになります。

13歳になるとカンタベリーのキングズ・スクールに入学したものの、英語をうまくしゃべれなかったためいじめの対象となり、その経験はモームにとって長年のコンプレックスとなってしまいます。また14歳から15歳にかけては母と同じ肺結核にかかり、南仏で療養生活を送ることになります。回復したモームはドイツのハイデルベルク大学に学び、作家にあこがれを持つようになるものの、叔父が牧師を望んでいたことにより、結局ロンドンの聖トマス病院付属医学校に入学。学業に打ち込むことはなく、文学書を読みふける生活を送りました。

1914年第一次世界大戦が勃発すると、ベルギー戦線の赤十字野戦病院で勤務し、その後諜報機関に転属し、諜報員として活動を行うようになります。その一方劇作家としての活動も続け、1915年には『人間の絆』を発表。また同時期に書かれた戯曲『おえら方』は1917年に上演され、大成功に終わりました。

戦後健康を損なったことで諜報員の仕事を辞したのちは、アメリカや南太平洋の島々を訪れ、その後は日本、シベリア、ペトログラードなどを転々としていきました。しかしその間も諜報員としてドイツの単独講和阻止のためにMI6の諜報員としてケレンスキーに接触する任務に就くことになり、このことはモームの病状をさらに悪化させることとなりました。

その後スコットランドのサナトリウムで療養しながら、画家ゴーギャンの生涯を元に『月と六ペンス』を執筆。1919年に出版されるとアメリカで大ベストセラーとなり、英語圏における世界的な作家として認められるようになっていきました。こうした著作業の傍ら、1920年代には世界各国に船旅を続け、ニューヨークをはじめアメリカ各地や南太平洋を訪れる日々を続けました。

第二次世界大戦勃発前後には、イギリス当局からの依頼でフランスにおける諜報活動を行ったものの、1940年6月にはパリが陥落。その後ロンドンに亡命し、10月にはリスボン経由でニューヨークに向かい、終戦までアメリカに滞在しました。晩年も旅行を続け、1954年にはエリザベス2世から名誉勲位を叙勲するなどの名誉を受けたものの、高齢による認知症からトラブルを起こすこともしばしばでした。1965年12月にはリヴィエラの邸宅で死去。91歳の生涯を閉じることとなります。

■サマセット・モームの作品と作風

※画像はイメージです

サマセット・モームの作品の特長は、平明な文体と巧妙な筋書きにあります。特にモームは物語性を重要視したことで人々から親しまれる作品を世に送り出したものの、その作品の背景にあるのは両親を亡くしたことや吃音で苦しめられたことによる孤独や人間観であり、モームの作品は人間の本質を描いた小説の一つということができるでしょう。

そんなサマセット・モームの作品には、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品をご紹介いたします。

・『月と六ペンス』 1919年

※画像はイメージです。

本作は1919年に発表された作品で、画家のポール・ゴーギャンの人生を描いた作品です。後に映画や舞台、テレビドラマ化などがなされ、モームの代表作の一つとなりました。

作家である「私」はストリックランド夫人のパーティに招かれ、たまたまそこに訪れていたチャールズ・ストリックランドと出会うことになります。ストリックランドはイギリスの証券会社で働いていたものの、ある日突然家族を残して失踪してしまい、心配した夫人は「私」に調査を依頼。「私」はストリックランドがいるというパリに向かうのでした。

「私」がストリックランドの元を訪れると、駆け落ちしたといわれている女性の姿はなく、ひとりで貧しい生活を送っていました。ストリックランドは絵描きになりたいという希望を捨てきれず、そのために家族と生活を捨てたと告白するのでした。「私」はストリックランドを批判したものの、彼がそれで意志を曲げることはなく、それを聞いた夫人はやがて仕事を見つけ自立していくのでした。

それから5年経ったある日。パリで暮らす「私」はローマで知り合った三流画家ダーク・ストルーヴの元を訪れ、彼がストリックランドの才能にほれ込んでいることを知ります。ストルーヴに連れられてストリックランドの元を訪れたものの、相変わらず彼は貧しい生活を送っており、クリスマスには重病を患ってしまいます。

ストルーヴはストリックランドを家に引き取ろうとするものの、妻のブランチは反対。夫に説得されて仕方なくストリックランドの看病をするようになったブランチだったものの、やがて彼女はストリックランドに好意を寄せるようになってしまいます。しかしその想いは成就することなく、絶望のあまりブランチは服毒自殺を遂げてしまいます。妻の死を知ったストルーヴは、故郷のオランダに戻ってしまうのでした。

・『劇場』 1937年

※画像はイメージです。

本作は1937年に発表された作品で、成功した女優と劇場支配人である夫との物語を描いた作品です。

ジュリア・ランバートとマイケル・ゴセリンはリヴァプールの劇団に所属していた際に初めて出会い、2人は相思相愛となって結ばれることとなります。しかし第一次世界大戦のさなか休暇でマイケルが戻ってくると、ジュリアはもうマイケルを愛しておらず、2人の間には決定的な溝ができてしまっていたのでした。

■おわりに

サマセット・モームは1874年1月25日にフランスのパリに生まれた小説家で、医師として軍務にあたりながら『月と六ペンス』や『お菓子とビール』など近代文学に残る作品を執筆した人物です。その作品は平明な文体でありながら、ストーリー展開に優れた作品となっており、現代にまで読み継がれてきました。映画化や舞台化もなされているモームの作品ですが、ぜひ小説でもモームの世界観を味わってみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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