サム・ウッド:『チップス先生さようなら』『誰が為に鐘は鳴る』を手掛けた映画監督

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サム・ウッドは1883年にアメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれた映画監督です。『チップス先生さようなら』や『誰が為に鐘は鳴る』など映画史に残る作品を手掛けたことで知られています。そんなサム・ウッドの人生と作品について詳しく解説していきます。

■サム・ウッドとは

※現代のアメリカ・ペンシルベニア州

サム・ウッドは1883年7月10日アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれました。もともとは不動産ブローカーとして働いていましたが、その傍ら俳優チャド・アプリゲートとしても活躍しており、1915年からはセシル・B・デミルのもとで助監督として映画製作の仕事に携わるようになっていきました。1919年には監督デビューし、1920年代はパラマウント映画の看板スターたちが出演する作品を数多く手掛け、1927年代からはメトロ・ゴールドウィン・メイヤーとも提携して名作と呼ばれる作品を制作するようになっていました。

そんなサム・ウッドの代表作といえるのは1939年に制作された『風と共に去りぬ』で、サム・ウッドが手掛けたのは一部であったものの、アカデミー監督賞に3回ノミネートされるなど高い評価を受けるようになっていきました。1943年にはアーネスト・ヘミングウェイの『誰が為に鐘は鳴る』を制作。同作はスペイン内戦を舞台とした作品で、サム・ウッドの最大のヒット作となります。

その一方で極めて強い保守的思想を持つ人物であったことから「アメリカの理想を守るための映画同盟」を結成し、その会長に就任。創設メンバーの中にはウォルトディズニーやゲイリー・クーパー、ロナルド・レーガンなども含まれており、1947年には下院非米活動委員会でハリウッドの左翼寄りの思想を批判するほどでした。

晩年はこうした政治的活動に力を注ぎ敵も少なくない日々を過ごしていたこともあってか、1949年9月22日には心臓発作で死去。66歳でその生涯を閉じることになります。

■サム・ウッドの作品

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サム・ウッドの作品は『オペラは踊る』や『チップス先生さようなら』などアメリカ映画史はもとより世界的にも記録的な大ヒットを残した作品が多く、その重厚な演出とアメリカらしさを表現した作風は後世の映画監督たちに大きな影響を与えました。

そんなサム・ウッドの作品には、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品についてご紹介します。

・『オペラは踊る』 1935年

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本作品は1935年に制作された作品で、アメリカを代表するコメディグループ「マルクス兄弟」がメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに専属となった第一作目の作品にあたります。マルクス兄弟は総売り上げの15%をギャラとする破格の条件でオファーされており、制作の前に175回にわたる舞台巡業を行い丁寧な映画作りをしたこともあって、マルクス兄弟最大のヒット作となりました。1993年にはアメリカ国立フィルム登録簿に登録されており、アメリカ映画を代表する一作となっています。

舞台はイタリアのミラノ。大富豪の未亡人を誑し込んでアメリカ巡業の資金を手に入れたドリフトウッドは自身が統括するオペラ団とともにアメリカ行きの舟に乗り込んだものの、そこには無名歌手と一癖ありそうなマネージャー、そして助手が入り込みひと騒動となってしまいます。ようやくアメリカに到着した一行はオペラ「イル・トロヴァトーレ」を上演することになりますが、思いがけない結末が待ち構えていました。

・『マルクス1番乗り』 1937年

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本作品は1937年に制作された作品で、マルクス兄弟のメトロ・ゴールドウィン・メイヤー専属第二作にあたります。本作もまた前作の『オペラは踊る』と並ぶ大ヒットを記録しました。

舞台は競馬場近くの診療所。診療所を営むオーナーのジュディは経営難に苦しんでおり、患者でお金持ちのアプジョウン夫人の希望もあって名医ハッケンブッシュ博士を招きます。しかしハッケンブッシュ博士は田舎で馬を専門に見ている獣医でした。アプジョウン夫人は博士に病気を治してもらえれば病院に資金援助を行うと宣言し、ジュディは頭を抱えることになります。

一方運転手のトニーは騎手のスタフィと協力してレースの賞金をジュディに渡そうとしていましたが、病院乗っ取りを企てるモーガンはハッケンブッシュ博士の正体を暴き、さらにはトニーの計画をつぶそうと策を講じます。

・『チップス先生さようなら』 1939年

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本作品は1939年に制作された作品で、ジェームズ・ヒルトンの同名小説を原作としている作品です。

舞台は1928年のイギリス。15年前にパブリックスクールの教師を退職した83歳のチップスは始業式に出席しようとしていましたが、風邪のため家で安静にしているようにと医師から止められてしまいます。夕暮れ時になりチップスは暖炉の前で温まりながら、過ぎ去りし日々を回想し、舞台はチップスが25歳、初めてラテン語の新任教師として着任したブルックフィールド・スクールにうつります。

チップスは初日から生徒たちの数々の悪ふざけの標的となり、校長からは生徒たちに厳しく接するようにプレッシャーをかけられてしまいます。教室内に厳格な規律を導入したものの、生徒たちはそのせいでクリケットの試合に出場することができなくなり、チップスは憎まれる存在になっていきました。中年にさしかかったチップスはオーストリアでキャサリン・エリスという女性と知り合い、勇気を振り絞ってプロポーズするもの、エリスが乗る列車は出発してしまいます。しかし友人スチュフェルのはからいで2人は結婚することになります。

キャサリンは結婚後生徒たちを毎週のように招待するようになり、徐々に生徒たちもチップスに親しみを持つようになっていました。しかしキャサリンは出産の際に子供と共に亡くなってしまい、チップスは大きな悲しみに包まれます。

1909年に着任したラルストン校長は学校の近代化を目指し、チップスはそんな校長と衝突することになります。古い伝統を軽視し生徒たちが機械化されている現状は学校の理事会も危惧しており、チップス支持の方針を打ち出します。最終的にラルストンを改心させたチップスは1914年に引退。第一次世界大戦の際には教員不足から代理校長として復活するものの、1918年には再度退職。そして1933年死の床にあったチップスは「子供はいたよ。何千人も。何千人もの子供たちがみんな私の息子なんだ」という言葉を残してこの世を去ります。

■おわりに

サム・ウッドはアメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれた映画監督で、『チップス先生さようなら』や『誰が為に鐘は鳴る』を手掛けた映画監督として有名な人物です。手掛けた作品の数点がアメリカ国立フィルム登録簿に登録されていることから、ウッドの作品がその後の映画業界に大きな影響を与えました。

ウッドは映画業界での貢献度の高さが評価され、ハリウッド大通りにあるハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにはウッドの名前が彫られた星が埋め込まれ、訪れる人々にその功績を伝えています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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