ジェームズ・ブキャナン・デューク:アメリカン・タバコ・カンパニーの創設者

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ジェームズ・ブキャナン・デュークは1856年12月23日にアメリカ合衆国ノースカロライナ州ダーラムに生まれた実業家です。アメリカン・タバコ・カンパニーの経営者であり、デューク大学の創設にも関わったことで知られています。そんなジェームズ・ブキャナン・デュークについて詳しく解説していきます。

■ジェームズ・ブキャナン・デュークとは

※ノースカロライナ州ダーラム

ジェームズ・ブキャナン・デュークは1956年12月23日アメリカ合衆国ノースカロライナ州ダーラムに生まれました。父親は実業家で慈善家でもあるワシントン・デュークで、たばこ会社を所有していました。

■アメリカン・タバコ・カンパニー

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今ではデュークが経営した企業として有名なアメリカン・タバコ・カンパニーですが、ジェームズ・ブキャナン・デュークが経営に関わるようになったのは1879年のことでした。2年後ジェームズ・アルバート・ボンサックがタバコ巻き上げ機を発明したことにより紙巻タバコ事業に参入。この機会は1分の間に200本以上の紙巻きたばこを生産することができ、それまでのコストを半分に抑えることも可能でした。

デュークは1884年ボンサック・マシン・カンパニーと取引してすべての紙巻きたばこをレンタルしたボンサックの機械2台で生産することと引き換えに、レンタル料を生産煙草1000本あたり0.3ドルから0.2ドルに値下げする契約を締結。この秘密契約の結果、デュークは他社より安い値段でたばこを生産できるようになっていました。

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しかし紙巻きたばこの市場は減退しつつあり、デュークはその代替策として企業連合を設立することを思いつきます。1889年には80万ドルを広告費につぎ込み、また煙草の価格も競合他社より安くなるように引き下げ続け、合併を進めていきました。1890年にはデューク・アンド・サンズ、アレン・アンド・ジンター、W・S・キンボール・アンド・カンパニー、グッドウィン・アンド・カンパニーの5社で紙巻きたばこの生産90%のシェアを占めることとなり、設立初年でニューヨーク証券取引所に上場。その後紙巻きたばこやプラグたばこ、スモーキングタバコの生産の80%も占めるようになり、アメリカン・タバコの純資産額は3億1600万ドルに増大するまでになっていました。

しかしこのタバコ・トラストは歴史的に独占を嫌う議員たちの注目を集めるようになっていました。アメリカン・タバコ・カンパニーはイギリスや中国、日本にも進出し多様な煙草スタイルを提供していったものの、1907年にはシャーマン法違反を指摘され、1911年にはスタンダード・オイルトラストと共に解散を命じる判決を言い渡されることになります。このアメリカン・タバコ・カンパニー事件はトラスト関連の判決として極めて重要とされています。

その後8か月にわたって解体が進められることになり、アメリカン・タバコ・カンパニーの資産からアメリカン・タバコ・カンパニー、R.J.レイノルズ、リゲット・アンド・マイヤーズ、ロリラードの4社が設立され、独占状態から脱していきました。

その後アメリカン・タバコはリーズビルとダーラムを去ることになったものの、2004年にはダーラムにあるアメリカン・タバコ・キャンパスがオフィスや店舗、レストランの複合施設として再オープンされることとなり、再開発が進みました。オフィス空間の多くはデューク大学によって使用されており、ダーラムの新しい名所の一つとなっています。

■デューク大学の設立

※デューク大学

またこうしたビジネスの一方でデュークは、デューク大学の設立にも力を注ぎました。デューク大学はもともと私立学校のブラウンズ・スクール・ハウスとして開校しました。メソジスト教会の支援により1851年にはノーマルカレッジ、1859年にはトリニティ・カレッジに改名し、1892年にはジュリアン・カーとワシントン・デュークの誘致によってダーラムにキャンバスを移すこととなりました。

1924年にデュークは4000万ドルのデューク基金を設立。基金は病院や孤児院、メソジスト教会、そして4つの大学に分配されることとなりました。この際学長ウィリアム・プレストンヒューは、当時数多くあった「トリニティ・カレッジ」と区別するためにデューク大学と改名することを発表。デュークはあまり乗り気ではなかったものの、父の名誉を記念する事業になるとして受け入れることになります。

その後寄付金により大学は急成長を遂げ、1925年から1927年にはジョージ様式の、また1930年までにはゴシック様式の学者が完成し、1935年にはチャペルが建てられました。また1892年には女性が正規の学生としてクラスに出席することが理事会で決められ、4人の女性が登録されています。1897年には女性の学生寮が建てられ、ワシントン・デュークの娘にちなんでメアリー・デューク・ビルディングと名付けられました。1961年には最初の黒人大学院生が登録されることとなり、1960年代にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアによって公民権運動の進展についての講演が行われるようになるなど、差別の撤廃や平等が示される場となっていきました。

■デュークの死

※デューク大学のキャンパスにあるメモリアルチャペル

こうしてアメリカン・タバコ・カンパニーの経営やデューク大学の設立といった事業に力を注いできたデュークでしたが、1925年10月10日にはニューヨーク市で亡くなり、デューク大学のキャンパスにあるメモリアルチャペルで葬儀が行われました。

デュークの死後その莫大な財産はデューク基金に移されることになり、また信託基金によってさらに6,700万ドルが追加されました。その遺産は今の価値にして10億ドルの価値があったといわれています。遺言書によりデューク大学、デヴィッドソン・カレッジ、ファーマン大学、ジョン・スミス大学などが支援されることになり、非営利の病院や児童養護施設、教会などにも寄付が行われることとなりました。

■おわりに

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ジェームズ・ブキャナン・デュークはアメリカ合衆国ノースカロライナ州ダーラムに生まれた実業家で、アメリカン・タバコ・カンパニーの経営とデューク大学の創設に関わったことで有名です。アメリカン・タバコ・カンパニーはシャーマン法に関して訴訟を起こされるなど問題点も多かったものの、企業の拡大という点では非常に的確な経営であり、のちの経営者も参考にしてきました。

またデューク大学や教会などに多額の寄付を行うなど、慈善活動も行ってきました。結果デューク大学はアイビーリーグの一角をなす世界有数の大学となっており、世界最先端の研究が行われています。こうした慈善活動はのちに続く企業家たちの目指す姿といえるでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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