ジガ・ヴェルトフ:ドキュメンタリー作品の父と呼ばれる映画監督

ジガ・ヴェルトフは1896年ロシア帝国領のポーランド・ビアリストクに生まれた映画監督です。『カメラを持った男』をはじめとしたドキュメンタリー作品を数々制作し、現在ではロバート・フラハティやヨリス・イヴェンスとともにドキュメンタリー作品の父と呼ばれています。そんなジガ・ヴェルトフの人生と作品について詳しく解説していきます。

■ジガ・ヴェルトフとは

※現代のポーランドの街並み

ジガ・ヴェルトフは1896年1月2日、ロシア帝国領だったポーランドのビアトリストクに生まれました。両親ともにユダヤ人の家系であり、ビアリストク音楽院で音楽を学んだ後、詩やSF、風刺などを書くようになります。その後1916年から1917年にかけてはサンクトペテルブルクの精神研究所で医学を学んでいますが、この際の経験がのちのヴェルトフの作品に大きな影響を及ぼすことになります。

1917年の10月革命の後、22歳になっていたヴェルトフはモスクワ映画委員会のもと毎週制作されたニュース映画の編集の仕事に就くことになり、1918年には第一弾の作品が上映されることになります。その際将来の妻となる映画監督兼編集者となるエリザヴェータ・スビロワに出会うことになります。エリザヴェータはその後『カメラを持つ男』や『レーニンの三つの歌』といったヴェルトフの作品のアシスタント兼共同監督となり、ヴェルトフを支えていきました。

1919年になるとヴェルトフは革命記念日のためのニュース映画の編集に着手。1921年には南北戦争を主題とした作品を制作しています。また1922年からは「映画の真実」を意味するキノプラウダの制作を開始していきます。キノプラウダにおいてはストップモーションやフリーズフレームなどさまざまなテクニックを駆使しており、後世の映画監督たちに大きな影響を与えました。

1921年にはレーニンがNEPを通じて民間企業を認めたことにより、フィクション映画が制作されるようになり、ヴェルトフもまたそうした作品を制作するようになります。しかしその際に制作された作品が批判されたことにより1927年1月には共産党を離れることになり、また解雇されることになってしまいます。

しかしウクライナ・ステート・スタジオはヴェルトフを監督として起用し、『カメラを持つ男』を制作。高い評価を受けるものの、1934年には社会主義リアリズムの台頭によりヴェルトフは制作に携われなくなり、最後にはニュース映画の監督しか仕事が残されていませんでした。失意の中にあったジガ・ヴェルトフはがんのため、1954年2月12日58歳の生涯を閉じることになります。

■ジガ・ヴェルトフの作品

※画像はイメージです。

ジガ・ヴェルトフの作品の特長は「映画的な真実」を意味するキノプラウダと「映画眼」を意味するキノグラースにあります。キノプラウダは走る車や高い塔からのショット、また超近接ショットなど、あらゆる状況にカメラを持ち込み、カメラを通してありのままを描こうとする試みであり、キノグラースはそうした中でカメラを人間の目の延長としてとらえて、さまざまな世界のありのままの姿を見出そうとする試みのことを指します。

こうしたレアリスム的なアプローチはそれまでの映画技法にはなかったものであり、その後のドキュメンタリー作品はもちろん、後世の映画監督に大きな影響を与えることになります。

そんなジガ・ヴェルトフの作品には、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品についてご紹介します。

・『カメラを持つ男』 1929年

※画像はイメージです。

本作品は1929年に制作された作品で、ヴェルトフが彼の妻エリザヴェータとともに制作した代表作にあたります。ソビエトの都市であるキエフやハリコフ、モスクワ、オデッサの都市生活を紹介するものであり、演じる俳優はおらず、夜明けから夕暮れまでの街のひと時が描かれていきます。

本作品では多重露光や低速度撮影、スローモーション、フリーズフレーム、マッチカット、ジャンプカット、スプリットスクリーン、ダッチアングル、極端なクローズアップなどが用いられており、そのほとんどはヴェルトフが発明したものです。こうしたアヴァンギャルドなスタイルはカメラはどこでも撮影ができること、また人間の目の延長としてカメラが機能できることを証明しました。

・『世界の六分の一』 1926年

※画像はイメージです。

本作品は1926年に制作された作品で、ソ連の文化や経済的多様性に焦点をあてたもので、「完全な社会主義社会」を賛美する内容になっています。

作品はキリル文字のタイトルから始まり、西側の資本家に注意を向けたのち、ロシアが多くの機械を購入できるほど豊かであること、また輸入収入のためには農業生産が極めて重要であるなどソビエトの経済を紐解くシーンから始まります。

1926年のインタビューにおいてヴェルトフは本作品をコメディ的な作品や芸術的な作品とは異なる、映画の次の段階の作品であると語っており、のちのドキュメンタリー作品につながっていくと考えられます。

・『レーニンの三つの歌』 1934年

※画像はイメージです。

本作品は1934年に制作された作品で、ドキュメンタリー作品として制作されたサイレント映画にあたります。劇中ではソビエトの匿名の人々がウラジミール・レーニンを称賛する3つの歌を歌うシーンが上映され、作品全体は3つのエピソードから制作されています。また本作品は1969年にはヴェルトフの妻であるエリザヴェータ・スビロワ、イリヤ・コパリン、セラフィマ・パンピアンスカヤなどによって1970年のレーニン100周年の一環として再編集されました。そうした意味ではソビエトの政治体制と共にあった作品といえるでしょう。

■ジガ・ヴェルトフ集団

※画像はイメージです。

ストップモーションやフレームフリーズなど画期的な手法を用いたヴェルトフでしたが、晩年は体制からの圧力により制作規模を縮小せざるを得ませんでした。しかし、その後ヴェルトフの意志はフランスの映画作家集団に受け継がれていきます。1968年から1972年まで活動したこの集団は「ジガ・ヴェルトフ集団」と名付けられ、ヌーヴェル・ヴァ―グの中心人物であったジャン=リュック・ゴダールが同グループのもと「政治の時代」に制作・発表したことで知られています。

ジガ・ヴェルトフ集団の作品は1968年の『あたりまえの映画』や1969年の『ブリティッシュ・サウンズ』など画期的なものでしたが、1972年の『ジェーンへの手紙』完成直後に解散することになります。

■おわりに

ジガ・ヴェルトフはロシア帝国領であったポーランドに生まれた映画監督で、ストップモーションやフレームフリーズといった現在でも使用される画期的な映画技術を開発した人物です。特に『カメラを持つ男』や『レーニンの三つの歌』といった作品はドキュメンタリー的なタッチであり、かつ新しい表現を取り入れていたことから、後世の映画監督たちに大きな影響を与えました。ヴェルトフの意志はその後フランスで活躍することになるジガ・ヴェルトフ集団に引き継がれていくこととなります。

ドキュメンタリー作品の父とも名高いジガ・ヴェルトフ。お時間のある時にぜひ鑑賞してみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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