ジャック・リヴェット:ヌーヴェル・ヴァーグの中心人物

※画像はイメージです。

ジャック・リヴェットは、1928年3月1日フランスのルーアンに生まれた映画監督です。フランス映画史上伝説的な『カイエ・デュ・シネマ』の編集長を務め、ヌーヴェル・ヴァーグの若手監督たちを牽引した人物でもあります。そんなジャック・リヴェットの人生と作品について詳しく解説していきましょう。

■ジャック・リヴェットとは

※フランス・ルーアンの街並み

ジャック・リヴェットは、1928年3月1日フランスのルーアンに生まれました。映画監督として数本の短編映画を制作した後、1950年5月にはエリック・ロメールが主催するシネクラブ・デュ・カルティエ・ラタンから機関誌『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』を創刊。その後は、アンドレ・バザンをはじめとした左岸派の『カイエ・デュ・シネマ』と合流するため同誌を廃刊し、以降は『カイエ・デュ・シネマ』に映画批評を投稿しています。1963年から1965年までは、3代目編集長を務めました。

映画監督としては1958年から長編映画に取り掛かり、1960年には『パリはわれらのもの』を発表。同作は英国映画協会サザーランド杯を受賞しました。また、上映時間12時間40分にも及ぶ『アウト・ワン』やオノレ・ド・バルザックの『知られざる傑作』を原作とする『美しき諍い女』など、次々と話題作を発表。批評家としても映画監督としてもキャリアを確立していきました。

その後、80歳を超えてからも制作に励んでいたリヴェットでしたが、2016年1月29日にパリで死去。87歳の生涯を閉じることになりました。

・『修道女』 1966年

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本作品は1966年に制作され、18世紀の小説家ディドロが女子修道院の腐敗を告発した『修道女』を映画化した作品です。当時、発表されるや否や「カトリックに対して冒涜的だ!」と反対運動が起こり、上映禁止になるという騒動に発展しました。

舞台は、1757年のフランス・パリ。貧乏貴族の三女・シュザンヌは、修道女となる請願の儀式で「修道女になることは自分の意志ではない」と主張します。その後、実家に連れ戻されるものの、両親に結婚の持参金を払う経済的な余裕はなく、シュザンヌには修道女になる道しか残されていませんでした。シュザンヌの母は彼女が不義の子であることを明かし、強引に説得を試みます。そうして、シュザンヌは正式に修道女となったものの、不思議なことに儀式の間の記憶は失われていたのです。

修道院に入ったシュザンヌだったものの、そこは修道院長クリスティーヌが横暴を働く場所であり、苦しみの日々を送ることになるのでした。

・『セリーヌとジュリーは舟でゆく』 1974年

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本作品は1974年に制作され、魔法のキャンディの力で夢の世界へ行き来する2人の女性を描いた冒険ファンタジー作品です。

ジュリーは、公園のベンチで魔術の本を読んでいたところ、セリーヌが走ってきて落とし物をし、そのまま去ってしまいました。ジュリーはそれを拾い、セリーヌを追いかけます。その後、セリーヌはホテルに魔術師としてチェックイン。翌日、ジュリーはホテルのロビーでセリーヌに落とし物のマフラーを渡し、2人は徐々に心を通わせるようになっていきますが、彼女たちに待ち受けていたのは壮大な魔術の世界でした。

・『美しき諍い女』 1991年

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本作品は1991年に制作され、「美しき諍い女」というタイトルの絵を完成させようとする画家と周囲の人々の葛藤を描いた作品です。オノレ・ド・バルザックの短編『知られざる傑作』を原作とする作品で、1991年のカンヌ国際映画祭ではグランプリを受賞しました。

画商のポルビュスは、旧友フレンフォーフェルの邸宅に新進画家の二コラとその恋人マリアンヌを招待します。実のところ、フレンフォーフェルは10年ほど前に妻のリズをモデルにして「美しき諍い女」というタイトルの作品に取り掛かっていたものの中断。それ以来、筆を執ることはありませんでした。「美しき諍い女」は17世紀の高級娼婦カトリーヌ・レスコーのことで、フレンフォーフェルは彼女のことを本で知り、作品として描こうと試みていたのです。

一度は筆を置いたフレンフォーフェルだったものの、マリアンヌをモデルに最高傑作を描くことを決意。マリアンヌはモデルになることを渋ったものの、二コラの薦めもあって5日間で完成させることを条件にして渋々了承しました。ところが、フレンフォーフェルの条件は過酷なもので、肉体を酷使するようなポーズを要求され、その内面もさらけ出すことを求められるようになっていきます。しかし、フレンフォーフェルは次第に自信を無くし始め、逆にマリアンヌの方が挑発して描かせるなど、制作は張り詰めていきました。

・『嵐が丘』 1985年

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本作品は1985年に制作され、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を30年代のフランスの田舎を舞台に置き換えて映画化した作品です。

舞台は、1931年の南仏。地主の旧家「嵐が丘」では、長男のギョームが養子ロックを邪険に扱い、使用人同然に扱っていました。しかし、ロックを愛する妹カトリーヌは、そんな兄に反発。ロックと共に家出をするものの、途中で猟場の罠に足を挟まれて怪我を負ってしまいます。近くに住むブルジョワのランドン家に身を寄せたものの、もともと孤児のロックはランドン家に入ることが許されず、結局嵐が丘でギョームに苦しめられながら、彼女の帰りを待つことになるのでした。

帰宅したカトリーヌは上流階級と接したことで見違えるように美しくなり、ロックはその姿に自分との深い溝を感じます。そして、革命記念日のパーティーで暴行事件を起こし、姿を消してしまいました。

3年後、ランドン夫妻は亡くなり、その息子と結婚したカトリーヌはランドン家の当主となっていました。そこに立派な姿に身を固めたロックが現れ、ギョームの借金を肩代わりして嵐が丘を手に入れます。そこからそれぞれの思惑が錯綜し、思いがけない結末に巻き込まれていくのでした。

・『パリでかくれんぼ』 1995年

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本作品は1995年に制作され、夏休みのパリを舞台に3人の少女が冒険を繰り広げる作品です。

7月15日、ニノンはバーで恐喝の相棒がだまし取ろうとした分け前を奪い、ダンスフロアで踊っていたものの、相手を誤って刺してしまいます。現場から逃げ出したニノンは、足を洗ってバイク宅配便に転職。ルイーズは5年前の事故で昏睡状態にあったものの回復し、ホテルから父に電話したところ、叔母が亡くなり、その家が遺産として自分に残されたことを知らされます。

■おわりに

ジャック・リヴェットは、1928年3月1日フランスのルーアンに生まれた映画監督です。『カイエ・デュ・シネマ』の編集長を務める傍ら、映画監督としても活躍。様々なテーマの作品に挑戦し、80歳を過ぎてからも映画監督として制作を続けました。

フランス映画に関心のある方は、フランス映画史において非常に重要な役割を果たした彼の作品をぜひ鑑賞してみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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