ジャン・ヴィゴ:フランス映画に大きな影響を及ぼした夭折の映画監督

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ジャン・ヴィゴはフランス、パリに生まれた映画監督です。『アタラント号』や『ニースについて』といた作品を制作したものの、29歳という若さで亡くなったこともあり、作品すべての時間は合わせても3時間あまりしかありません。しかしその撮影技法や主題がのちのフランス映画に大きな影響を及ぼしたことから、「呪われた映画作家」ともいわれています。そんなジャン・ヴィゴの人生と作品について詳しく解説していきます。

■ジャン・ヴィゴとは

※フランスのパリ

ジャン・ヴィゴは1905年4月26日フランスのパリに生まれました。父親はジャーナリストのミゲル・アルメレイダで、アナーキストとして第一次世界大戦前より対ドイツ外交において平和主義的な立場をとるボネ・ルージュ誌を創刊した人物でした。そのためドイツの手先と見なされ極右組織アクシオン・フランセーズの標的とされていました。1917年にアルメイダは逮捕。その後獄中で首にひもを巻き付けられた状態で死亡しています。こうした状況のため当初から暗殺されたという疑惑が持ち上がっており、ジャン・ヴィゴも父の死を解明しようと試みていました。

父が亡くなってもなお極右勢力はいやがらせや脅迫を遺族に行っており、ジャンの家族は身を隠すように暮らすしかありませんでした。高校に進学するものけ者にされたため、モンペリエに住む義理の祖父ガブリエル・オーベスのもとに身を寄せることになります。オーベスは写真家でもあったため、ヴィゴのその後の作品に大きな影響を与えることになりました。

1931年にはポーランド出身のリドゥ・ロザンスカと結婚し、一人娘のリュース・ヴィゴをもうけますが、ジャンは若いころから肺結核を病んでおり、29歳の時には敗血症で短い生涯を閉じることになります。

■ジャン・ヴィゴの作品

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ジャン・ヴィゴの作品は生涯で4作品しか制作されておらず、上映時間はすべて合わせても3時間程度しかありません。しかしジャンの作品は社会的不平等やスポーツといった主題を独自の手法で撮影した作品であり、のちのフランス映画に大きく寄与することになりました。そのためジャンは「呪われた映画作家」とも呼ばれており、詩人のアルチュール・ランボーとよく比較されています。こうしたジャンの後世への影響から、新人監督を対象としたジャン・ヴィゴ賞が設けられました。

そんなジャン・ヴィゴの作品には、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品についてご紹介します。

・『ニースについて』 1929年

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本作品は1929年に制作された作品で、ジャンの処女作となった作品です。本作品ではロシア出身のカメラマンであるボリス・カウフマンが撮影と脚本を担当しています。カウフマンはヴィゴの死後アメリカにわたりカメラマンとしてニューヨーク派の映画監督たちとともにエリア・カザンの『波止場』や『草原の輝き』、シドニー・ルメットの『十二人の怒れる男』、『質屋』などの名作を制作しました。

そんな二人の共同作品ともいえる本作品はニースに集まるブルジョワの避暑客と旧市街に住む貧しい人々を対照的に撮影した作品で、作品の所々に風刺をきかせてえがかれていることから、反体制的なドキュメンタリー映画として高い評価を受けることになりました。

・『水泳王ジャン・タリス』 1931年

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本作品は1931年に制作された作品で。世界記録を樹立した水泳選手ジャン・タリスを撮影したスポーツ・ドキュメンタリー作品です。本作品もスローモーションの多用により、水泳選手の肉体の美しさを見事に表現したことから高い評価を受けました。

しかし本作品と『ニースについて』は検閲によって非愛国的な作品とされ、公開禁止処分を受け、第二次世界大戦後のパリ解放を待たなければ上映が許可されることはありませんでした。しかしその独自の撮影技法や表現はきわめて斬新なものであり、のちの映画監督たちに大きな影響を与えました。

・『新学期・操業ゼロ』 1933年

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本作品は1933年に制作された作品で、そのスキャンダラスさにより1945年1月まで撮影を禁止されていた作品です。ジャンの子ども時代の寄宿生活がもとになったといわれており、反権威的な作品から当時の政府によって上映禁止となり、本作品もまた第二次世界大戦が終結するまで公開されることはありませんでした。

舞台は学園祭を間近に控える学校。教師たちにたいして犯行を企てた生徒たちは後者に立てこもり、屋根の上から教師たちに攻撃を与えます。特に夜白い寝間着姿の子どもたちが枕の羽をまき散らしながらベッドの上を跳ねまわる場面のスローモーション撮影は映画史に残る名場面といわれています。

・『アタラント号』 1934年

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本作品は1991年に制作された作品で、ジャンの唯一の長編劇映画にしてイサクにあたります。脚本はジャン・ギネが担当し、ミシェル・シモンとディタ・パルロ、ジャン・ダステが出演しました。

アタラント号はルー・アーブルとその上流の田舎町を往復している船。そのアタラント号の若き船長は新婚で妻を伴っていたものの、妻は都会のパリへの誘惑にかられアタラント号をこっそり抜け出してしまいます。怒った妻は妻を置いて出航してしまいますが、自分がしたことにもかかわらず妻の不在にショックを受け、急に川に飛び込み、妻の幻影を見るなど腑抜けの状態になってしまいます。妻もひったくりにあい、また帰るに帰れないでいたところを老水夫ジュールに探し出され、船に戻ることになります。

作品全体にジャン特有の詩的で自由奔放な表現やユーモアがちりばめられており、高く評価されたものの、ジャンは1934年10月5日、最後の作品を目にすることなくこの世を去ることになります。

■ジャン・ヴィゴ賞

ジャン・ヴィゴ賞は1951年に創設された賞で、若手監督に授与される賞です。現在は長編映画と短編映画の2部門があり、若手映画監督を奨励する賞として長きにわたって若手監督たちの登竜門であり続けてきました。

ジャン・ヴィゴ賞の審査委員は映画評論家や映画監督に加え、俳優や作家、脚本家、ジャーナリストなどによって構成され、当初の審査員には映画評論家でジャン・ヴィゴの娘であるリュース・ヴィゴも含まれていました。

■おわりに

ジャン・ヴィゴはフランス、パリに生まれた映画監督であり、生涯制作した作品は4作品と片手で数えられるほどでありながら、その独自の表現やユーモアが評価されている映画監督です。またその作品の多くが反愛国的と評価されたため、第二次世界大戦ののちのパリ解放を迎えてからようやく公開されたことからも歴史に翻弄された映画監督の一人といえるでしょう。

ジャン・ヴィゴは死後その功績が高く評価され、フランスではアヴァンギャルドな映画を制作した若手映画監督を奨励するためのジャン・ヴィゴ賞が創設されました。ジャン・ヴィゴの新しい作品を見ることはできませんが、その熱意を受け継ぐ若手監督たちの作品を追いかけてみるのもよいかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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