パブロ・ピカソ:多作な天才画家

( Pablo Picasso wax figure at Madame Tussauds museum in Bangkok.)

パブロ・ピカソ(1881年−1973年)は、スペインに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。キュビスムの創始者として有名。生涯に約1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、その制作数の多さから、最も多作な美術家であると「ギネスブック」に認定されている。

誰もが知っているピカソの絵画。美術の教科書や、美術館、テレビやインターネットなど、そこかしこで目にする機会があります。でも、ピカソの絵って子どもが落書きしたような絵だったり、何が描いてあるのかわからなかったり、「こんな絵で高額な値段がつくなんて……!(自分でも描けそう)」と思う人も少なくないですよね。そんなピカソの絵の見方と、彼の芸術家生涯を交えて、解説していきたいと思います。

「モナ・リザ」を盗んだ!?波乱万丈の人生

スペインで生まれたピカソは、美術教師の父を持ち、子どものころ、父から絵の道具を譲り受けています。美術学校入学後に、1ヶ月の猶予がある課題を、1日で完成。このときから、ピカソの腕前の凄さが伺えます。その後、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学しますが、学校で絵を学ぶことの無意味さを感じ、中退。プラド美術館に通い、名画を模写する日々を送りました。

画家としての生活を始め、パリに移住したピカソは、なんと、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を盗んだ容疑者として捕まってしまいます。ピカソの友人である詩人ギヨーム・アポリネールが窃盗の常習犯で、過去にもルーブル美術館から彫刻を盗み、ピカソに売りつけたという前歴の持ち主だったからです。
しかし、2人は証拠不十分で釈放。盗まれた「モナ・リザ」は、2年後にイタリアのホテルで発見され、真犯人が捕まりました。そのホテルはこの事件に便乗し、「ホテル・ラ・ジョコンダ」(モナ・リザという意味)と名前を変えたそうです。

また、ピカソは女性関係も破天荒で、正式な妻以外に何人もの愛人を作っていました。生涯に2回の結婚、3人の女性との間に4人子どもを作ったのです。彼の生活環境によって作風も変化し、友人が自殺して亡くなったときは悲しみに打ちひしがれているような絵画を(青の時代)、恋人がいるときは幸せに満ち溢れている絵を(ばら色の時代)描いています。制作時の心情が絵に表れていると知ると、さらに絵画鑑賞が楽しめますよね。

「キュビスム」って何?

ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者といわれているピカソですが、絵画に精通した人でないと、絵の動向なんてわかりません。キュビスムとは、現代美術の大きな動向であり、それまでの具象絵画がひとつだけの視点から描かれているのに対し、いろんな角度から見た物の形をひとつの画面に収めた作品をいいます。写真で撮ったような絵ではなく、絵だからこそできる表現方法を目指したのです。だからピカソの絵は、通常に見たままの絵ではなく、顔のパーツが変な位置に付いていたり、こんがらがった物が登場したりするのですね。

キュビスムで有名なピカソですが、決して子どもが描いたような絵しか描けないわけではありません。彼の絵画は、圧倒的な上手いデッサン力に裏付けされています。たとえば、「科学と慈愛」という絵画があります。ほかの有名画家が描いたような絵で、人物も背景もとてもうまく描かれています。なんと、この作品ピカソが15歳のときに描いたものだということです。幼少期から、美術教師の父親に鍛えられていたという背景がうかがえるでしょう。

画家にしては幸運な人生

画家のなかにはゴッホのように、生きている間まったく評価されず、凄まじい貧乏生活を得て人生の幕を閉じた、そんな人たちが大半をしめます。しかし、ピカソは生前に売れた画家でした。というのも、ピカソが活躍した20世紀初頭は、「アートはビジネス」としてオークション市場が活性化した時代。なので、時代の最先端の絵画を制作していたピカソの作品は、たくさんの投資家やコレクターたちに買われていき、値段もどんどん跳ねあがっていきました。

ピカソの絵が高級なのは、こういった時代背景があります。「子どもが描いたような絵に何億もの値段がつくのがおかしい」という意見はありますが、美術館やマーケットが一体となって「ピカソ」という天才芸術家を作りあげました。必ずしも、「作品が誰もがうまいというものかどうか」で値段が決まるわけではないのです。

多様な作風

ピカソの絵画は、並べると「別の人が描いたんじゃないか」と思ってしまうような作品が多いです。作風がめまぐるしく変化した画家として有名で、作者のそのときどきの心情や環境が、制作物に大きく反映されます。ここでは、ピカソの作風とその制作背景を紹介していきます。

「青の時代」

さきほども紹介しましたが、ピカソが19歳のとき、親友が自殺をします。そのショックから盲人や娼婦、乞食などをモチーフに、青色を基調として描いた時代です。孤独で鬱屈とした青春時代を表しているような絵画が多く、代表作に、親友とその恋人が抱き合う姿を描いた「人生ラ・ビィ」や、暗い表情の家族を描いた「悲劇(海辺の貧しい家族)」などがあります。

「ばら色の時代」

フェルナンド・オリヴィエという恋人をモデルに、オレンジやピンクなどを用いて描いていた時代。明るい色調で、サーカスの芸人や踊り子たちが描かれています。ピカソは自分にできないものや自分とは違ったものを好み、ジプシーや闘牛、下等な寄席や道化師に惹かれ、彼らの華やかな舞台上の姿ではなく、舞台裏でのようすをモチーフにしているのです。

「アフリカ彫刻の時代」

アフリカ彫刻に強く影響を受け、キュビスムの原点となる絵画「アヴィニョンの娘たち」が制作されました。

「キュビスム時代」

スペインを旅して、セザンヌのような風景画を描いたり、モチーフを徹底的に分解・記号化し、落書きのような絵を制作したり、新聞紙や壁紙をキャンバスに貼りつけるコラージュを発明したり。これまでの絵画の観念を打ち砕くような作品を描きました。素人目にはわけのわからない作品を、多く描いていた時代です。

「新古典主義の時代」

バレエ団のダンサーと結婚し、「わかりやすい絵を描いて」と言われ、それまでのキュビスム的技法を捨て、古典様式を取りいれた時代です。妻と息子をモデルにし、どっしりとしたようすの母子像「母と子」が有名。新古典主義というのは、古代風の衣装をまとったふくよかな女性たちを、躍動感たっぷりに描くもので、キュビスムを経過して現れたので、モデルを立体的かつボリューム満点に描いています。

「シュルレアリスムの時代」

化け物のようなイメージが多く描かれた時期。妻との不仲を反映しているといわれています。代表作は、精神を病んだ子どもが描いたような「磔」など。

「ゲルニカの時代」

ナチ・ドイツがスペインのゲルニカを爆破したことを非難している「ゲルニカ」や「泣く女」は、この時代に描かれました。戦争の悲惨さや、人々の悲しみがよく表わされています。

「晩年の時代」

油彩・水彩・クレヨンなどさまざまな画材を使い、カラフルで激しい絵を描きました。91歳で亡くなるまで、自分の自画像など絵を描くことをやめず、「芸術こそピカソ、ピカソこそ芸術」と信じていた画家でした。

反戦絵画「ゲルニカ」

ピカソと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、「ゲルニカ」と「泣く女」ではないでしょうか。ドイツ空軍によるスペインのゲルニカが受けた都市無差別爆破をモチーフにしており、反戦や抵抗のシンボルとして名高い作品です。この絵画に取り組むまえの数年間、ピカソは女性関係に翻弄されほとんど絵を描いていなかったそうですが、「ゲルニカ」制作には熱心だったということが、画面から伝わる迫力で感じられるでしょう。

ピカソはゲルニカ襲撃のニュースを知ると、もともと依頼されていたパリ万博の壁画制作に、「ゲルニカ」を描くと決めました。
モノクロの画面に、死んだ子どもを抱いて泣き叫ぶ母親や、天に救いを求める人、狂ったように叫ぶ馬など、逃げまどい苦しみ叫ぶ人々や動物が描かれています。ピカソ自身もこの絵画に登場しており、絵画の左下に倒れている人物、もしくは建物から落ちる人物が彼だそうです。兵士以外はすべて女性として描かれており、女性と子どもはゲルニカの無垢性をイメージしているとされています。

ピカソにおいて女性と子どもは人類の完璧さを表す象徴でした。
戦争作品にも関わらず「血の色を出さない」ことが、悲惨さをより深く表しています。また、コラージュ的に使われている新聞紙はゲルニカ事件を報じるもので、インターネットなど通じて私たち現代人にも目にすることができます。

「ゲルニカ」と同じく有名なのが「泣く女」。この作品は、愛人ドラ・マールがモデルで、もうひとりの愛人フランソワーズ・ジローと、「ゲルニカ」制作中のピカソのうしろで取っ組み合いの喧嘩をしたなんていう逸話が残っています。ピカソは空爆被害を受け絶叫する人々と、泣く女性たちを重ね合わせ、表現しているそうです。

まとめ

生涯にわたって、非常に多くの作品を作りあげてきたピカソ。「芸術家といえばピカソ」と多くの人に連想させ、「ゲルニカ」や「泣く女」で有名ですが、彼は絵画だけではなくバレエ団の衣装制作や装置なども手がけてきました。有名絵画ではなく、その技術の幅広さや制作物の圧倒的な数の多さも、人々から賞賛される所以ではないでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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