カズオ・イシグロ:涙なしには読めないノーベル賞作家

カズオ・イシグロといえば、ノーベル文学賞を受賞した、英国在住の日系人作家。「日の名残り」(1994)や、「私を離さないで」(2011)が映画化・ドラマ化されたことでも知られる。2018年には、英国政府から爵位を受け、「ナイト」となり、また日本でも旭日重光章の叙勲を受けた。「強い感情の力で」「世界と結び付いているという幻想的感覚の下の深淵を暴いた」(ノーベル賞を授与したスウェーデン・アカデミー)と言われる、カズオ・イシグロ作品の魅力の源泉を探ってみた。

生い立ち

カズオ・イシグロは1954年長崎生まれ。英国在住の日本人(日系人)作家です。カズオが5歳のとき、一家は渡英。それ以来、大人になるまで、カズオは日本を見たことがありませんでした。
カズオは小学校卒業後、成績優秀者が入るグラマースクール(7年制の中等学校)に入学します。卒業後はすぐ大学へは行かず、1年間の休みを取って北米に渡り、米国やカナダをヒッチハイクで旅行したそうです。

帰国後はイギリス東南部のケント大学の英文学科に進み、最優等で卒業します。卒業後、再び休暇を取り、失業者やホームレスを支援するロンドンの社会福祉施設で働き、そこで将来の妻と出会います。
この社会福祉施設での経験と、それまで目指していたミュージシャンへの道が閉ざされたことから、文学への興味を掻き立てられ、1979年にイギリス東部にあるイースト・アングリア大学の修士課程に入学します。このとき、彼の持ち物は、一個のスーツケース、ギターとオリベッティのタイプライターのみ。このころまでは長髪のヒッピー姿だったそうで、今では想像もつきません。

大学ではクリエイティブ・ライティング学科に所属し、早くから小説家としての才能を開花させます。
ここではその後発表された代表作を、長編中心に紹介しましょう。寡作(発表作品が少ないこと)で知られる作家であり、主要作品はすべて邦訳されているので、全作品読破も容易でしょう。

「遠い山なみの光」(1982年)

カズオ・イシグロのデビュー作であり、その後の作品の要素がすべて入った佳作です。
物語はイギリス在住の日本人女性・悦子の元へ、娘のニキが訪ねてくるところから始まります。
悦子は長崎出身で、戦争で家族を亡くし、世話をしてくれた男性の子息と結婚し、長女景子を授かります。
娘のニキは、その後再婚したイギリス人ともうけた子供で、景子は渡英後自殺しています。
悦子はニキの訪問を機に、長崎時代の記憶をたどります。特に、近所に住んでいた佐知子という女性と、その娘万里子との交際が、まざまざと思い出されます。

佐知子はアメリカ人の男性と結婚して、アメリカへ渡る計画を立てています。その計画にとって邪魔なのか、万里子への扱いがぞんざいで、万里子自身も、度々周囲とトラブルを起こしています。
などと当時の記憶が、悦子と佐知子の会話を中心に語られますが、具体的な事件があるわけでもないのに、なぜか不穏な雰囲気が漂う中、時間はだんだんと現代へ近づいていきます。
悦子はなぜ前の夫と離別したのか、景子はなぜ自殺したのか――。
この後はネタバレになってしまうので詳細は避けますが、この作品は最後にどんでん返しがあり、その意味をめぐって今も論争が続いています。

「日の名残り」(1989年)

カズオ・イシグロの名を世に知らしめ、イギリスで最高の文学賞であるブッカー賞を受賞した作品です。
舞台は第二次世界大戦後のイギリス。主人公スティーブンスはダーリントン卿という名士に長年仕えてきた執事ですが、ダーリントン卿は亡くなり、新しい主人であるアメリカ人富豪に、旅行に出るように勧められます。
謹厳実直を絵に書いたような執事は、はじめは断りますが、以前一緒に働いていたが結婚のため辞めた元メイド長、ベン夫人に会うという名目で旅行を承諾しました。

旅行の道すがら、スティーブンスは今まで忘れていた、あるいは目を背けてきた自分の過去と向き合うかのように、記憶をたどります。
スティーブンスにとって過去は「古き良き時代」であると同時に、「あのときこうしていたら」という残念な「If」の積み重ねでもあります。
甘くて同時に苦い――過去を振り返るとき誰しもが経験する思いを、イギリスの美しい風景の中に塗り重ねた、絵画のような小説です。

1993年、「眺めのいい部屋」「モーリス」「ハワーズ・エンド」で有名なジェイムズ・アイボリー監督で映画化されました。この映画も、高い評価を受けています。
スティーブンス役はアンソニー・ホプキンス、ベン夫人役はエマ・トンプソンで、アメリカ人富豪はクリストファー・リーブが務めました。
エマ・トンプソンはカズオ・イシグロと同時にエリザベス女王より叙勲され、「デーム」の称号を得ました。

「私たちが孤児だったころ」(2000年)

常に新境地に挑むイシグロが、「探偵小説」に挑んだ意欲作。
イギリスの探偵、クリストファー・バンクスは、幼い頃上海の疎開で暮らしていましたが、ある日突然両親が失踪し、英国の叔母の元で育てられます。
両親の秘密を解くべく、大人になったバンクスは私立探偵となり、社交界にデビューします。そして上海に戻り、両親探しを始めるのですが、ときは1937年、日本と中国の全面戦争が始まっており、上海にも戦火が及んでいます。
そんな激動の情勢の中、クリストファーは両親の失踪の秘密を暴こうと疾走します。そして見つけた、あまりにも悲しすぎる真相とは――というのがあらすじです。

ただ、この小説の醍醐味は、こうしたメイン・プロットの謎解きだけでなく、その周囲のサブプロットにもあります。特に、幼い頃の親友のアキラとの思い出は、もう戻ってこない日々に誰しもが抱く哀切感をうまく描き出しています。
読み終わってタイトルの意味を考えると、「孤児だったころ」というのは、なんとも意味深な表現であることに気付かされます。
「だった」というのは、過去形ですから、今は「孤児ではない」ともとれます。
確かに主人公は両親の秘密を知って、自分は捨てられた子供ではない、ということを知るのですが、「(子供の頃)両親がいなかった」ということには変わりありません。

人はいつか親を亡くしますし、親がいたとしても、疎遠になったり、孤独を感じたりすることはあるでしょう。
だとしたら、過去、現在、未来のいずれかにおいて、私たちはみな「孤児だったころ」を迎える、つまり私たちはみんな、何らかの意味において「孤児」なのではないでしょうか。

「私を離さないで」(2005年)

カズオ・イシグロが初めて挑んだSF作品。2010年に映画化、日本では2014年に舞台化、テレビドラマ化もされました。
物語の舞台パラレルワールドの英国にあるヘールシャムという全寮制学校です。主人公キャシーは、このヘールシャムで幼い日々を過ごしますが、この施設が何のためにあるのか、そもそも自分たちがどこから何のために集められたのかは、当初本人たちには知らされません。

施設を出るとき、真相の一端が判明します。彼らは臓器移植用に作られたクローン(「提供者」)で、時期が来れば、人間に臓器を差し出さなければならないというのです。
大抵の場合は3回臓器を提供すると、そのクローンは「終了」、つまり死にますが、4回提供する提供者もいます。
噂では、この運命から逃れる方法が、いくつかあることが示唆されています。
キャシーとその親友ルース、男友達のトミーは、その可能性に賭けて真相を暴こうとします。

全編に流れる物悲しい雰囲気、クローンたちを待ち受ける過酷な運命。限られた生を精一杯生きようとするが、ついに終わりを迎えるクローンたちの思い。
まさに涙なしでは読めない傑作です。

イシグロ作品の特徴

ここで改めて、イシグロ作品の特徴をまとめてみます。
まず、基本的に物語は「一人称」で語られる、しかも「信用できない語り手」という手法が多用される、という点です。
「信用できない語り手」とは、物語が一人称で語られ、語り手には見えない事態や事実を読み手から隠すことで、作者が読者にトリックをしかける小説の技法のことです。

ミステリーの世界では定番ですが、一般文芸作品でも、用いられることがあります。そしてカズオ・イシグロがこの手法に非常に長けており、作品全体の雰囲気作りに重要な役割を果たしている、という研究者は多いのです。
次に、作品の中で「記憶」が重要な役割を果たしている、ということも、よく指摘されています。
「記憶」とは、人間が外の世界を解釈して、頭の中にためておく仕組みですが、「解釈」の仕方が時とともに変われば、そうした「記憶」のあり方や、「記憶」の位置づけも、自分の中で変わっていきます。
また「現実」の中で大きな価値の変化があるときには、「解釈」が追いつかず、人間は深い不安に襲われることがあります。

価値観が多様化し、複雑性の増した現代において、「現実」と「自分」をつなぐ橋である「記憶」が大きくゆらぎ、不安の縁に立たされた人間を描く――。
これがカズオ・イシグロ作品を貫く中心的モチーフとなっています。

Amazonはイシグロ作品から生まれた?

カズオ・イシグロのノーベル文学賞は、世界各地で大きな反響を呼びました。一般メディアやファンの称賛の声が、マスコミやソーシャルメディア上にあふれる中、意外な人物が、「イシグロファン」であることが注目を集めました。
EC大手、Amazonの創業者、ジェフ・ベゾスです。
ノーベル賞受賞が決まったとき、ジェフ・ベゾスはTwitterで、このようにつぶやきました。
「(「日の名残り」は)昔からの愛読書です。後悔の痛みを教えてくれました。イシグロさん、おめでとうございます。あなたはノーベル賞にふさわしい人です」

また、過去のインタビューでは、「『日の名残り』を読めば――私の愛読書の一つです――、過去に自分のしてきたことを振り返ってしまうことでしょう。私は10時間別の人生を生きることで、人生と後悔について学びました。ブログじゃできないことです」と答えたことがあります。
一部では、Amazonの企業文化そのものが、「日の名残り」から学んだことに基づいている、という人もいます。
「(お客への)義務、犠牲、報われない愛」というコンセプトが、「日の名残り」のテーマと重なる、というのです。
確かに、「日の名残り」は、Amazon従業員が読むように勧められる「ジェフのリーディングリスト」に入っています。
もしこの仮説が事実だとすれば、文学が、一つの革命的企業の誕生にまで影響を及ぼしたことになります。まさにノーベル賞にふさわしい偉業といえるかもしれません。

参考文献

Wikipedia(英、日)

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧