フィンセント・ファン・ゴッホ:苦悩を抱え続けた孤高の画家

(Public Domain /‘Self-portrait’By Vincent van Gogh.at English Wikipedia. Image via WIKIMEDIA COMMONS)
※ゴッホの『自画像』

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
ゴッホは、オランダを代表するポスト印象派の画家です。わずか10年の創作期間で、約2100点もの作品を制作しました。うち約860点が油彩作品で、その大半が亡くなる前の約2年間に集中して制作されています。感情の起伏が激しく、精神が不安定になることが多かった彼ですが、絵に対する情熱だけは消えることがありませんでした。1886年にはパリに移住し、画家の先輩であるポール・ゴーギャンから大きな影響を受けたことでも知られています。このころから彼の作風は大きく変化し、『ひまわり』を代表とする鮮やかで明るい色彩と、細かなタッチが印象的な作品を制作していきました。

(Public Domain /‘en:Vincentvan Gogh age eighteen’By Unknown author.at English Wikipedia. Image via WIKIMEDIA COMMONS)
※18歳の時のゴッホ

〈教育とグーピル商会〉

ゴッホはオランダの南部、ベルギーとの国境近くにあるズンデルトという小さな田舎町の、牧師の家に生まれました。幼い頃は、内向的で複雑な性格の少年だったようです。8歳のときには地元の学校に入学しましたが、1年後には家庭教師に切り替えています。その後数年間は家族の元を離れて寄宿学校に通い、1866年からはティルブルフの国立高等市民学校に通いました。ここでは、フランス語、英語、ドイツ語の学習、さらには週4時間のデッサンの授業もこなしていたようです。

1869年、16歳になったゴッホは、叔父が共同経営を務めていた画商グーピル商会ハーグ支店の店員になります。ゴッホはここで、当時の美術業界を知ることになりました。しかし、叔父との不仲などからこの職場では強い孤独感を感じてしまい、1872年には寂しさを埋めるように弟のテオと手紙のやりとりを始めました。

翌年の夏にゴッホはハーグを離れ、イギリスのロンドン支店に異動しています。この時期には下宿先の娘ユルシュラ・ロワイエに恋心を抱き告白するも、婚約者がいるという理由で振られてしまうという悲劇的な恋愛を経験しました。この失恋は、ゴッホの憂鬱な日々を一層暗くする要因となったのです。

1875年にはパリ本店へと異動していますが、この頃には客からお金を巻き上げるような自分の仕事に嫌悪感を抱いていました。また、孤独感に苛まれる日々から逃げるように、キリスト教の学びを熱心に深めてきます。仕事に身が入らなくなっていたゴッホは、ついに1876年1月、商会によって解雇が言い渡されてしまうことになるのでした。

(Public Domain /‘The Potato Eaters’By Vincent van Gogh.at English Wikipedia. Image via WIKIMEDIA COMMONS)
※『じゃがいもを食べる人々』

〈キリスト教と画家への道〉

ゴッホは職を失った後、イギリス南部のラムズゲートで教師として働きます。その後、ロンドン西部のアイズルワースで牧師の補佐役も経験しました。やがて伝道師になる夢を抱いてベルギーへ移ることとなり、あらゆる人々へと働きかけます。しかし、空回りが続いたことで最終的には伝道資格を取れずに終わり、ゴッホはこの道を諦めることになりました。

1879年の夏からは父からの金銭的援助に頼りつつ、昔から好きだった絵の制作に集中します。しかし、いつまで経っても経済力をつけようとしない姿にやがて父からも呆れられ、1880年からは弟のテオによる金銭的援助を受けるようになりました。この頃住んでいたベルギーのクウェムにある家で、ゴッホは画家になることを決心したといいます。

1881年、27歳になったゴッホは、主題や視点を変えながらさまざまな絵画の制作スタイルを試していきました。中でもよく取り上げられたのは、農民や鉱夫など、当時の第一次産業に従事していた人々の姿です。また、画商時代に美術館で作品に触れていた、巨匠のレンブラント・ファン・レインやジャン=フランソワ・ミレーなどから影響を受け、表現力豊かなスケッチやドローイングも多く描いていました。このようにして、ゴッホの約10年に及ぶ劇的な画家人生が始まったのです。

その後、ゴッホはオランダ北ブラバント州のエッテンに移っていた実家に戻り、そこでの生活を始めます。この期間ゴッホは芸術に集中し、数え切れないほどのデッサンや絵画を制作しました。また、雑誌の挿絵で生計を立てることに興味を持った時期もあったようですが、しばらくしてこの夢は諦めてしまったようです。

1882年からはハーグやオランダ北部のドレンテ州内を転々としながら制作活動を行い、最終的にはオランダ北ブラバント州のニューネンで家族と一緒に暮らしました。ここでは両親との緊張関係を回復し、小さなアトリエとして使える小部屋も手にすることができました。ニューネンでの生活の間、ゴッホは200点近い油彩画を描いています。

しかし、1885年の3月には父親が発作のために急死し、責任をこじつけられたゴッホは家を追い出されてしまいます。再び弟のテオに頼るようになったゴッホは、厳しい農民の生活を描写することに力を注ぐようになりました。同年4月末には、ゴッホの最も有名な作品のひとつである『じゃがいもを食べる人々』を発表しています。

(Public Domain /‘Sower at Sunset’By Vincent van Gogh.at English Wikipedia. Image via WIKIMEDIA COMMONS)
※『日没の種まく人』

〈身を削るほどの芸術への情熱〉

1885年11月、ゴッホはベルギーのアントウェルペンに移り住みました。翌年1月、33歳のときにはアントウェルペン王立芸術学院に入学し、より高度な絵画技術を身につけようとしています。一方、彼は持っているお金のほとんどを絵の制作に注ぎ込んでいたため、食事は粗末なもので済ませていました。また、喫煙者としてタバコは欠かせなかったようで、この時期、食生活の乱れと度重なる喫煙の影響で健康状態は決して良いとはいえませんでした。

また、このころ日本の浮世絵に強く惹かれており、積極的に収集しては借りていた部屋の壁に貼っていました。彼の浮世絵コレクションは、最終的に約400点にも及んでいます。

1886年2月、彼はパリのモンマルトルにある弟のテオの家に突然移り住み、自分のアトリエも手に入れます。そして、現地の画家であるアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、カミーユ・ピサロ、クロード・モネ、エミール・ベルナールらと親交を深めました。また、ロマン派の画家ウジェーヌ・ドラクロワや、アレゴリーの画家ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌとも知り合っていたようです。ゴッホは彼らからたくさんの刺激を受け、精力的な制作活動を行いました。また、この頃には自分の個性的な画風に自信を持ち始め、美術の世界で成功できると信じていたようです。

1888年2月、芸術的な創造だけに専念する芸術家のコミュニティを作るため、ゴッホはフランスのアルルへと旅立ちます。5月には「黄色い家」を借りてアトリエにし、現地の風景画を多く描きました。アルルでの生活を満喫していたゴッホは、ポン=タヴァンにいた画家仲間のポール・ゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、「黄色い家」での共同生活を勧めます。10月にこの提案は実現し、2人はしばらく新鮮で刺激的な暮らしを楽しみました。有名な連作『ひまわり』が制作されたのもこの時期です。

(Public Domain /‘Still Life: Vase with Fourteen Sunflowers’By Vincent van Gogh.at English Wikipedia. Image via WIKIMEDIA COMMONS)
※『ひまわり』

〈入院と死〉

しかし、芸術観の不一致によって、だんだん2人の中は緊張していきます。このことから精神状態が極端に不安定になったゴッホは、同年12月23日、自分の耳を剃刀で切り落すという有名な「耳切り事件」を起こしてしまいました。事件発覚後は療養のためにアルル市立病院に入院しましたが、わずか数週間で退院の日を迎えています。

しかし、退院後も彼はひどい幻覚や発作に襲われ続け、その奇怪な行動によって近隣住民から疎まれるようになっていきました。その結果、ゴッホはアルルから北に数十キロ離れたサン・レミの療養所に行くことを決意します。

療養所に移った後も、ゴッホは部屋の窓から見える緑の野原や山々、麦畑を主題に、多くの絵画を制作しました。油彩作品である『オリーブ畑』や『二本の糸杉』の舞台となったサン・レミの自然風景は、彼のインスピレーションの源となったのです。他の患者たちも、診療所内のアトリエで制作活動を行う画家の姿をよく見学しており、ゴッホはこれを肯定的に受け止めていたようです。

彼が診療所でたくさんの絵を描いたのは、自活したいというかねてからの目標があったからでしょう。また、弟のテオが家庭を持ち始めていたことが、経済的な支援をしてあげたいという気持ちも生み出していました。このため、ゴッホは自分の体調を省みずに診療所で多くの作品を制作し、『星月夜』や『糸杉と星の見える道』などの代表的な作品もいくつか完成させています。

1890年、療養所を退所したゴッホはパリの北西に位置するオーヴェル=シュル=オワーズ村に向かい、信頼のおけるポール・ガシェ医師による治療を受けることになりました。ゴッホはこの医師の肖像画やその家族の肖像画を制作していたことから、良好な関係を築けていたようです。

しかし、すでに深刻になっていた精神の病がついに限界を迎えたのか、1890年7月29日にゴッホは自分の胸を撃ち、そのまま命を落としてしまいました。ただし、何が自殺の引き金に貼ったのかははっきりとはわかっていません。たった37年間という短い人生でした。ゴッホの生前、彼の絵の才能を認めていた人はほんの一握りだったといいます。

また、弟のテオはゴッホの死の半年後、兄を追うように亡くなっています。兄の死に誰よりも衝撃を受けた彼は日に日に衰弱し、悲しみに包まれたまま命を引き取りました。テオの死後、彼が管理していたゴッホの絵画はテオの妻ヨハンナが引継ぎ、世界中にその魅力を伝えて行きました。

ゴッホの作品が世間に受け入れられていったのは、彼の死から10年後の20世紀頃になってからでした。多くの苦しみを経験した彼ならではの力強い表現は、今でも多くの人々に影響を与え続けています。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧