ハリー・ポッター:『ハリー・ポッター』はこうして生まれた

イギリスの作家J・K・ローリングによって紡ぎあげられた児童文学作品『ハリー・ポッター』シリーズ。本編7巻と、後日譚1巻の全8巻からなるこのシリーズは、73もの言語に翻訳され、世界累計発行部数は5億部を超えるメガヒット作品で、この数字を上回るのは聖書だけだともいわれている。この記事では、あまりにも有名なそのストーリーではなく、物語が生まれた背景にスポットを当てて紹介する。

世界一有名な魔法使い、ハリー・ポッター

ハリー・ポッター。
彼の物語自体は読んだことがなくても、きっとほとんどの人がその名を知っていることでしょう。
魔法をテーマに据えた物語は世界中に多く溢れていますが、いまだかつて『ハリー・ポッター』シリーズ以上に読まれた小説はありません。7巻の本編と1巻の後日譚からなる『ハリー・ポッター』シリーズの世界累計発行部数は、驚異の5億部以上。ちょっと想像もできない規模感ですよね。
シリーズは世界中で73もの言語に翻訳されており、珍しいところではラテン語や古代ギリシア語など、日常で使われることのない言語にまで訳されているというから驚きです。それだけ熱狂的なファンが多く、物語が愛されているということでしょう。

この記事では、そんな『ハリー・ポッター』を取り上げていますが、ストーリー自体にはほとんど触れません。あまりに多くの人が読んでいるこの小説を、いまさら紹介する必要はないでしょうから。
今回フォーカスするのは、『ハリー・ポッター』の裏側――物語がどのように誕生したのか、そして世に送り出されたのか。そうした部分にスポットライトを当てたいと思います。

J・K・ローリングは困っていた

仕事もなく、お金もなく、頼るあてすらもなく、ベビーカーで眠る娘を傍らに日がな一日コーヒーショップでペンを走らせる女性。それが、『ハリー・ポッター』の第1巻発売より数年前のJ・K・ローリングの姿でした。

幼いころから作家になる夢を抱き続けていたJ・K・ローリング。6歳のころには『Rabbit』と題したうさぎの物語を書き上げるほど、本が大好きで、ちょっぴり威張った少女だったといいます。そう、まるでハーマイオニーのように。
自分への自信のなさを打ち消すかのように勉学に励んだJ・K・ローリングは、文学方面に進みたいと思っていましたが、両親の希望を受けてエクセター大学に進学。そこでフランス語と古典を学びます。
大学卒業後、J・K・ローリングはさまざまな仕事を転々としながら小説の執筆を進めます。しかし、25歳までに書き上げた2つの小説が日の目を見ることはありませんでした。

そんなJ・K・ローリングがハリー・ポッターと出会ったのは、1990年のこと。
恋人の住むマンチェスターから、ロンドンへと戻る列車のなかでのことでした。
きっかけが何だったのかはさっぱり分からない。だけど、まるで恋に落ちたときのように唐突に、前触れもなく、目の前にハリーや魔法学校のイメージがはっきりと浮かび上がってきた。J・K・ローリングは、のちにそう語っています。

その、眼鏡をかけた痩せっぽっちの少年のイメージを目の前に見たとき、J・K・ローリングは身体が震えるほど興奮したといいます。
とにかくこのアイデアを書き留めようと鞄を漁ったものの、ペンはおろか、アイライナーさえ持っていなかった彼女は、ロンドンに到着するまでの間、ひたすら頭のなかにイメージを築き上げていきました。主人公のハリー・ポッターについてはもちろん、通う学校、そこで出会うさまざまな人々について。たっぷり4時間後、ロンドンに到着したころには、ハリーの親友ロン・ウィーズリーと、心優しい森の番人ハグリットが彼女のなかで息づき始めていました。

駅に降り立ったとき、J・K・ローリングは幸福な気持ちに満たされていました。運命の人と出会った瞬間に感じるような激しい高揚感。ウキウキとした、胸が高鳴るような興奮。
その興奮に掻き立てられるように、アパートへ帰るなり原稿を書き始めたJ・K・ローリング。しかし数年後、彼女はすっかり困り果ててしまうのでした。

最愛の母との死別、恋人との別れ。新しい町で結婚・妊娠するも出産後わずか4ヶ月で家から単身追い出され、なんとか取り返した娘と2人で暮らし始めるも、仕事はなく、うつ病を患い、生活保護でなんとか窮状を凌いで……。
今や、エンターテインメント界で活躍する女性資産家として第2位にランクインするまでになったJ・K・ローリングですが、『ハリー・ポッター』が特大のヒットを飛ばすまでは、ひどく困窮した生活を送っていたのです。

『ハリー・ポッター』が世に送り出されるまで

実は、原稿が完成しても、『ハリー・ポッター』はすぐには日の目を見ることができませんでした。
出版実績のないJ・K・ローリングは、原稿を代理事務所に送りますが、1件目はそっけない断りの手紙とともに送り返されてしまいます。2件目の代理事務所では契約を結ぶことに成功したものの、事務所がかけあった12の出版社は、今ではとても信じられないことですが、いずれも首を縦に振りませんでした。『ハリー・ポッター』の原稿はあまりに長編だったためです。
『ハリー・ポッター』を担当していた代理人は、これは難しいと踏んだのでしょう。J・K・ローリングに、本業の教師を続けたほうがいいとアドバイスしたといいます。

ようやく出版に手を挙げたのは、新人による児童文学小説の出版に力を入れていたブルームズベリー出版社でした。
ゴーサインを出した編集者は、自分で読む前に、8歳の娘に原稿を手渡したといいます。幸運にも『ハリー・ポッター』の最初の読者となったその少女は、1時間後、自室から出てきてこう言いました。「パパ、これは他のどんな小説よりもずっと素敵よ」。この少女の一言が、J・K・ローリングの運命を変えたのです。

J・K・ローリング自身にかけられた魔法

当時、まったくの無名だったJ・K・ローリングが受け取った契約金はたったの1,500ポンド。日本円にしておよそ21万円程度です。その初版発行部数は、なんとわずか500部でした。

第1巻の『ハリー・ポッターと賢者の石』は高い評価を受けましたが、今日のような大ブームには至らず、第1巻発売後もJ・K・ローリングは教師として生計を立てていました。
そんな彼女の身に、ある日、ついに転機が訪れます。作品の魅力に気付いたアメリカの出版社が、『ハリー・ポッター』の版権を高額で競り落としたのです。
そこからはまさに怒涛の勢いでした。J・K・ローリングは、きっと、何も知らないままフルーパウダーのかかった暖炉に放り込まれたかのような心持ちでいたことでしょう。

第2巻となる『ハリー・ポッターと秘密の部屋』は、発売されるやいなや児童書初の英国ベストセラーリストの1位を飾り、「ネスレ・スマーティーズ賞」をはじめとするさまざまな文学賞を受賞。
第1巻発売時には満足な広告も打てなかった新人作家が、またたく間にスターダムにのし上がった瞬間でした。

まさか自分が一流作家の仲間入りを果たし、長者番付の常連になろうとは思いもしなかったであろうJ・K・ローリングと、まさか自分が魔法使いで、魔法界でもてはやされることになるとは思いもしなかったであろうハリー・ポッターには、どこか重なる部分があると思いませんか?
『ハリー・ポッター』の魔法は、なによりJ・K・ローリング自身にかけられていたのかもしれませんね。

さいごに

今回は『ハリー・ポッター』の誕生秘話に迫りました。
いかがでしたか?今も世界中で売れ続けている大ヒット作が、まさかこんな苦境のなかで生み出されていたとは思わなかったのではないでしょうか。
『ハリー・ポッター』シリーズが今の地位を築き上げたのは、ひとえに、J・K・ローリングが決して諦めず、信念を曲げることなく作品を信じ続けたからこそ。そのひたむきな情熱を知ったうえで作品を読み返すと、また新しい見方が生まれるかもしれませんよ。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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