マルセル・デュシャン:20世紀に残した爪痕

マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)は1887年フランス・ノルマンディー地方に生まれた芸術家、チェスプレイヤー。一般流通している便器をほぼそのまま出展した『泉』を始め、既存の芸術観と大きく離れた「レディ・メイド」作品を多く発表した。寡作であるが、視覚以上に思考へ刺激を与える観念芸術の先がけとして20世紀以降のアートシーンに多大な影響をもたらした作家である。

『泉』の登場:戦時下の展示会にて

第一次世界大戦の火種がなおも燃える1917年、ニューヨークのグランド・セントラル・パレスで開かれた「ニューヨーク・アンデパンダン」展に、ある問題作が届きました。『泉(Fountain)』と題されたその作品は、市販の男性用トイレに「R.Mutt」と署名されただけのものだったのです。若手芸術家のために門戸を広く開いていた展示会側も『泉』には激しく困惑。手数料を払えば誰でも出品できるはずの会で、委員会は『泉』の展示を拒否しました。

『泉』を巡って運営側では論争が起こりました。すなわち、「不道徳で卑俗である」、そして「単なる衛生器具に過ぎない。ただの剽窃である」という意見です。どちらも根本としては「『泉』は芸術作品ではない」と主張しています。

1910年代のアメリカはトイレという言葉を新聞に載せることさえ憚られる時期でした。当時の倫理からして下品であるだけでなく、それが一般流通している複製品である点が問題となりました。
芸術作品は目で見て美しく、高尚であるべき。職人の手技によるものであるべきだ、という従来の考え方からすれば、『泉』はまさにかけ離れた位置にいます。「R.Mutt」という署名も配管材メーカーである「J.L.Mott」をもじった偽名です。展示会に、ひいては芸術に挑戦する意思は明白でした。
一連の騒動は署名人の名前を取って俗に「リチャード・マット事件」と呼ばれるようになります。そして、原因となった『泉』の製作者こそ、20世紀以降のアートに革命をもたらしたフランス人アーティストのマルセル・デュシャンです。
デュシャン自身が運営側にいたにも関わらず、なぜ『泉』は偽名でこっそりと送られたのでしょうか?また、なぜ彼は市販のトイレを「芸術」として送りだしたのでしょうか?デュシャンの生涯を追いながら、彼が『泉』に込めた意図を探ります。

デュシャン来歴:初期の油彩画活動

マルセル・デュシャンは、1887年にフランス・ノルマンディー地方で生まれました。裕福な家の生まれということもあってか10歳以上歳の離れた兄2人も芸術家。デュシャンは彼らの影響を受けて高校生ごろから油彩画を始めました。
この頃のデュシャンは、19世紀後半~20世紀初頭に始まった様々な前衛的な画法を試しています。色と光の移り変わりを重視した印象主義や、夢や神秘性に題を取るミステリアスな象徴主義、そして原色と荒々しい筆遣いが特徴的なフォーヴィスム。一見まとまりのないように見える描画法ですが、すべて19世紀以前の芸術とは大きく一線を画す近代的な手法とされています。

なかでも、デュシャンはキュビズム(立体派)に強い関心を抱きます。パブロ・ピカソなどに代表される、対象の原型を留めないほどに解体・再構築された絵画群は当時の画壇で非難の的になりました。彼が手掛けたなかでとりわけ有名な『階段を降りる裸体No.2』は1913年にニューヨークへ持ち込まれると、賛否両論を込めて話題を呼びます。これをきっかけにアメリカでのデュシャンの知名度が高まりました。
前々からフランス・キュビズム派との折り合いも芳しくなかったデュシャンは、以降アメリカへと活動の場を移すと同時に、油彩での表現活動から遠ざかります。

『大ガラス』:偶然の事故さえも取り入れる

ニューヨークにアトリエを構えたデュシャンは、パトロンの後援を受けながら続く作品の構想を練り始めました。デュシャンの歴史で欠かすことのできない作品『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』の原型が作られたのは1915年のことでした。
通称『大ガラス』と呼ばれるこの作品は、名前の通り主に2枚の巨大な合わせガラスによって構成されます。『大ガラス』には移送の際に入ったヒビがそのまま作品の一部として刻まれています。不測の事態によってできた新しい要素を、デュシャンは歓迎しました。

この謎めいた作品を読み解くに当たって、「『大ガラス』が作品単体では完結しない」ことは念頭に置いておくべきでしょう。デュシャンは1923年に作品の完成を断念しますが、1934年に制作中のメモやデッサン・写真をまとめた『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも』(通称『グリーンボックス』)を出版します。

『大ガラス』は抽象的な立体物で、ただ見ているだけではどこに楽しみを見出せばいいかあまりピンとこない代物です。しかし、作者の思考を参考にしながら自分自身で思索を深めることで、「見る」のではなく「考える」芸術が観客の脳内に生まれます。考える芸術こそがデュシャンが生涯を通じて求め続けたスタイルであり、『泉』や後の作品にも一貫して示されています。

『泉』再考:レディ・メイドが与えた影響

冒頭でも触れた『泉』など、ほとんど既製品そのままである一連の作品を、デュシャンは「レディ・メイド」と名付けました。男子用トイレや自転車の車輪が本来の用途から切り離され、まったく関係がなさそうな美術館や展示会に置かれることに、画壇も観客も戸惑いました。「なぜ絵画でもない、ましてや手も加えられていないものを作品にしたのだろうか?」。まさしく、こうした疑問や困惑こそデュシャンの目指したものでした。

リチャード・マット騒動の際、デュシャンと思われる匿名の人物から投書が送られました。「マット氏が自分の手でこの泉を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。彼はひとつの日用品を選び出し、新しいタイトルと観点のもとで、その有用性が消失するように設置し、その物体に対する新しい思考を作りだしたのだ。」つまり、芸術の意義は「作品そのもの」以上に「素材を選んだ作者の意図」にあるとする主張です。

19世紀末の画壇ではアカデミズムの型を離れた自由な作品もいくつか散見されるようになりました。それでも、やはり芸術とは作者のテクニックや手技に基づくものだという考え方が無意識のうちに根強く残っていました。

デュシャンは技術も型もない既製品を提示することで、芸術という枠組みをさらに崩して広げようと試みたのです。

『遺作』:死の先に

『泉』の展示拒否以降、デュシャンはアーティストというよりディレクターとして動くようになりました。チェスプレイヤーになろうとしたり、過去の作品をミニチュアで作り直して再考したりすることはありましたが、クリエイターとしてなにかを作ることはあまりありませんでした。
しかし、彼の死後に『与えられたとせよ1. 落ちる水2. 照明用ガス』(通称『遺作』)のパーツとメモが発見されたことで、最後の事件が起きます。小窓から中を覗くと女性の裸体のように見える抽象的なイメージが見えるこの大掛かりな最終作品を、デュシャンは20年以上ほとんど誰にも口外せずひとりで作り続けていました。『遺作』は、当時フィラデルフィア美術館に展示されていた『大ガラス』と密接な関係を持っていました。元から『大ガラス』の隣での展示を想定していたこともあり、『遺作』の全パーツはフィラデルフィア美術館に移籍され、2019年現在でも展示が続いています。
レディ・メイドを始めとして、作品というモノの外に価値を見出す考え方は、のちにアンディ・ウォーホルなどアメリカン・ポップ・アートやコンセプチュアル・アートへと繋がっていきます。1960年代~70年代のアメリカは芸術の最先端を担う場所となりました。デュシャンの存在が、20世紀アメリカンアートの起点となったと言えるでしょう。

【参考図書】
『ユリイカ総特集:ダダ・シュルレリスムの21世紀』青土社
『現代アート10講』田中正之・編
武蔵野美術大学出版局文芸春秋オンライン
 『「アートとはなんぞや」デュシャンの便器が教えてくれたこと

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