ジョン・レノンとオノ・ヨーコ:平和の祈りをこめて

世界一有名なミュージシャン、ジョン・レノンと日本人の前衛芸術家オノ・ヨーコ。常に人々に注目され、時に非難されながらも音楽やアートを通して平和のメッセージを全世界へ発信し続けた二人。本稿ではこの歴史的なカップルの出会いにまつわるストーリー、世界を相手取ったセンセーショナルな活動、そして死別までの軌跡と二人の絆について『ローリングストーン誌』や『プレイボーイ誌』に掲載されたインタビューでの発言を織り交ぜながら辿る。

出会い:ロンドン、インディカ・ギャラリーで見つけた「YES」

ジョンとヨーコの出会いには素敵な逸話がある。1966年当時のロンドンでカウンターカルチャーの拠点となっていたメイフェア地区のインディカ・ギャラリー。そこでヨーコは自身のキャリアとして初の個展を開いた。「とにかくおもしろい女性アーティスト」が展覧会をすると聞き付けたジョンは正式なオープニング前夜の1966年11月8日にこのギャラリーを訪問した。ギャラリーオーナーのジョン・ダンバーを介して二人は知り合うが本当の意味でわかり合うのはジョンがヨーコのある作品を見たときである。その作品とは『天井の絵』(YES Painting),1966年である。それは天井に水平に吊るされたキャンバスとその隅からぶら下げられた虫眼鏡、そしてそれを鑑賞するための7段の脚立によって構成された、今でこそオノ・ヨーコの作風に代表されるインタラクティブなインスタレーションと言えるが、その当時としては非常にアバンギャルドな試みを含む作品だったと言える。

この作品を見たときの印象について後にジョンは『ローリングストーン誌』創設者であり編集者のヤン・ウェナーにこう語った。「僕は脚立をのぼって虫眼鏡を覗いてみた。すると小さな小さな文字が見えて、そこには”YES”って書かれていたんだ。そのときだよ、僕たちが本当の意味で出会ったのは。この”YES”のおかげで僕はもう少しギャラリーに留まることにしたんだ。」脚立をのぼった先で見つけた消え入りそうに小さな”YES”がその後のジョンとヨーコの人生を大きく変えることになったのである。その啓示のような”YES”についてジョンは1973年に発表された曲『マインド・ゲームス』の中で以下のように触れている。「YESこそは答えだ、それは君にもわかるはず/YESとは身を委ねること、こだわりを捨ててごらん」

トゥー・バージンズ:「二つの魂、一つの運命」が回り始めて

ジョンとヨーコが出会った1966年、二人はそれぞれ別の相手と婚姻関係にあり家庭があった。しかしそのどちらも緊張状態にあったこともまた事実である。インディカ・ギャラリーでの出会いの後、しかし二人ともシャイで引っ込み思案な性格だったため急速に距離を縮めることはなく、ロンドン市内での偶然の出会いなどを重ね少しずつ近づいていった。二度目の出会いはクレス・オルデンバーグのギャラリー・オープニング。言葉を交わすことはなくそっと目で挨拶をする程度だったという。しかしその二度目の出会いのすぐ後にヨーコは1964年に出版された自著『グレープフルーツ』をジョンに贈っている。「地球が回る音を聞きなさい」や「マッチを灯しなさい、火が消えるまで見ていなさい」など、禅の公案を思わせるインストラクションと詩で構成されたその本をジョンはベッドの傍に置き、気が向いた時にページを開いたという。その後もヨーコは自身のイベントや展覧会があるとその都度ジョンに知らせた。

1968年2月にジョンはビートルズの他のメンバーと一緒にヒマラヤ僧院で超越瞑想を学ぶためにインドへ渡った。その間にもヨーコからのハガキは度々届いた。その内の一枚にはこう綴られていた。「私を探して、私は空に浮かぶ雲」。このハガキに込められたメッセージをジョンは確かに感じ取り、数年後にヨーコのことを、ヨーコ・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズと呼んでいる。そして1968年5月19日、インドから戻ったジョンはすぐさまヨーコに電話をかけた。その夜二人はジョンの家の2階のスタジオで即興曲を共同制作し、やがて結ばれたのである。その晩に収録された曲はアルバム『「未完成」作品第一番〜トゥー・バージンズ』に収められ1968年11月に発表された。ジョンが所有していたライカのセルフタイマーを使用して撮影された、ジョンとヨーコの等身大のヌード写真がジャケットを飾るそのアルバムはやがて世界中で大いに論争を呼ぶことになった。

出会いから約1年半の後、共同制作を経て結ばれた二人の生活はその夜から一変した。それは後にジョンが言うように「二つの魂、一つの運命」が回り始めた瞬間であった。そして驚くべきことに、運命の夜が空けた1968年5月20日の朝から1973年10月に二人が18ヶ月間の別居をするまでジョンとヨーコはお互いのそばをほとんど離れなかったのである。それぞれのパートナーと離婚したジョンとヨーコはメリルボーン地区で共同生活を始めた。モンタギュー・スクエア34番地にあるその部屋は1968年当時にジョンがそこに住んでいたことを記念して今では国内遺産とされている。

( John Lennon and Yoko Ono in the bed. Wax museum Grevin in Montreal. )

結婚生活:ベッド・イン、平和の祈りを込めて

ジョンとヨーコが結婚したのはロンドンで一緒に暮らし始めて1年過ぎた頃であった。1969年3月20日、ジョンとヨーコは自家用機に乗ってジブラルタルへ飛んだ。スペインの南海岸の半島にあるジブラルタルはイギリスの海外領土である。そこで二人はすぐに英国領事館の登記担当者立会いのもと正式に結婚した。その5日後、ハネムーンを祝してオランダへ向かった二人はある計画を実行した。それが『ベッド・イン』である。アムステルダム・ヒルトンのプレジデンシャル・スイートで行われたそれは、新婚の二人が一週間ベッドで過ごし、招かれた200人ものジャーナリストを相手に朝の9時から夜の9時まで話し続けるというパフォーマンスであった。パジャマとバスローブに身を包んだ二人は枕を背にしてベッドに座り、「ベッドで平和を(Bed Peace)」や「髪で平和を(Hair Peace)」と手書きされた張り紙に囲まれながら一週間話し続けた。

世界が呆気にとられた『ベッド・イン』はかねてよりヨーコが制作していたインストラクションのシリーズから着想を得た二人のパフォーマンス・アート作品であった。この時のことをジョンは「ジョンとヨーコのバラード」という歌にしている。『「ベッドで何をしているの?」って新聞記者が聞いた/僕は答えた。「少しでも平和になればと思っているだけさ」』。2ヶ月後の5月26日にはモントリオールのクィーン・エリザベス・ホテルで2回目のベッド・インを決行。ここでも二人は取材に来たジャーナリストと話し、電話でアメリカやカナダのラジオ局のインタビューを受けている。「僕たちはどんな犠牲を払ってでも平和を売り込みたいと思っている」と当時ジョンはジャーナリストたちに告げている。「ヨーコと僕は巨大な広告キャンペーンそのものさ。キリストのメッセージの現代版を作ろうとしているんだ。キリストは自分のメッセージを伝えるために奇跡を起こした。じゃあ現代の奇跡といえば色々なコミュニケーション・メディアなんだから、それを使わない手はない」と。

モントリオールでのベッド・インの最後の週末に二人はちょっとしたイベントを開いた。ジョンとヨーコによるこのパフォーマンスにインスパイアされた多様な訪問客、それは心理学者のティモシー・リアリーや詩人であり活動家のアレン・ギンズバーグなどの著名人や部屋に居合わせた記者たちとともに皆で「平和を我らに(Give Peace a Chance)」を歌い録音するというものであった。この曲は1969年7月にジョン・レノンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表したソロ・デビュー曲となった。同年9月13日にカナダのトロントで行われた「ロックンロール・リバイバル」イベントではプラスティック・オノ・バンドとして出演しこの曲を披露している。この時の演奏はアルバム『平和の祈りを込めて(Live Peace in Toront 1969)』に収録されている。また、その年の11月15日、ベトナム戦争に反対するためワシントン・モニュメントのデモに集まった50万人あまりの人々によって「平和を我らに」は合唱された。アメリカ史上最大の反戦デモで市民たちに歌われたこの曲はまさに平和運動を象徴し牽引することになったのである。これに対してジョンはこう断言している。「これは僕の人生で最も大きな出来事の一つだ」と。

そもそもジョンとヨーコが平和活動に常に力を注いできたのは、二人の育った時代背景を顧みればある意味当然とも言えるだろう。ヨーコは戦争の最中で幼少時代を過ごし、第二次世界大戦末期の東京大空襲を生き延びている。ジョンはドイツ空軍によるリバプール攻撃が中断していた1940年10月9日に生まれた。二人とも子供時代の記憶には戦争の爪痕がはっきりと残されているのである。

ベッド・インのパフォーマンスについてジョンはこう添えている。「毎日毎晩、テレビには血を流すベトナム人が映し出され、新聞には恐ろしい見出しが躍っていた。消えてなくなれと願ってるだけじゃ、何にもならない。だからヨーコと僕は決めたんだ。たまには平和的な見出しを書いてもらうのもいいんじゃないか、ってね。」また、ベッド・インの記憶についてヨーコは伝記作家のフィリップ・ノーマンにこう語っている。「インタビューやいろんな人たちとの話が終わって、みんなが帰った後に訪れた時間。あれは一生忘れられないほど素敵な時間だった。ある晩、雲ひとつない夜空に美しい満月が浮かんでいたことがあって、ジョンはこう言った。「僕たちはいつまでも一緒に曲を作り続けることになりそうだね。しかもその曲はきっと世界中で流れるよ。それが僕たちの人生。そういうことになりそうだ。」そこにいたのは私たちとお月様だけ。素晴らしかったわ」。ヨーコが回想するジョンの言葉通り、二人が結婚したこの年の一連の活動がジョンとヨーコの、そしてビートルズの今後を決定的なものにする。

ニューヨークへの移住:ビートルズの解散とヨーコへの世評

1969年9月21日、ビートルズのメンバーとマネージャーのアレン・クラインは、バンドの将来に関する会議のためにアップル社の会議室に集まっていた。話し合いが終盤に差し掛かった頃、突如ジョンが発言をし、その内容は瞬く間に世界中を駆け巡った。バンドの脱退を宣言したのである。「僕がバンドを作ったんだから、僕がバンドを解散させる、それだけのことさ」。その時、他のメンバーはバンドの解散を公式には認めなかったが、1970年12月31日にバンドを解散するためにポールが訴訟を起こしたことで公のもと、ビートルズの歴史は幕を閉じた。その会議を後にしたジョンはヨーコにこう語っている。「ビートルズとはこれまでだ。今日からは君一人。いいね?」

ジョンとの交際を公にし、制作活動を共にし始めた当初からヨーコへの世間の風当たりは強く、それは悪質で人種差別的なものが多かった。ロンドンのあるジャーナリストはヨーコを「世界で最も悪口を言われる女性」と呼び、ジョンのファンの女の子からはわざと棘が刺さるように仕向けられた黄色いバラの花束が届いた。ヨーコに悪意が向けられた理由は、ジョンのガールフレンド、妻としてだけではなく、ヨーコがアーティストとして当時一般的には理解され難い前衛的でコンセプチュアルな作風を持ち、その世界に「ジョンを引きずり下ろそうとしている」からという大衆の思いからでもあった。そしてジョンのビートルズ脱退を契機にヨーコに向けられる悪評もさらに根強いものとなった。

しかし、その最中でも二人は上記で挙げた代表的な『ベッド・イン』を実行したり楽曲制作をしたりとますます活動を発展させていった。世間は、ジョンがヨーコに悪影響を受けていると盲信していたがその実、ジョンはヨーコと出会う前から自宅のレコーディングスタジオで音の実験を繰り返し、自身も前衛芸術に親和する素質を携えていたのである。また、辛い世評を目の当たりにしてもヨーコは信念を貫き、物事の明るい面を見ようとしていた。その当時の心境についてヨーコは『プレイ・ボーイ誌』のデヴィッド・シェフにこう語っている。「嫌悪のエネルギーが私に集まるや、それが素晴らしいエネルギーに変わったの。私を支えてくれたのよ。自分に向けられたエネルギーを、バランスを取りながら変化させることができれば、それはかえって力になる。それで死んでしまうと思ったら、ほんとに死んでしまうのよ」

1970年12月、ジョンとヨーコはヨーコの第二の故郷ともいえるニューヨークへ赴き、以後活動の拠点とし、二人のアーティストとして映画制作やパフォーマンス、そして新たな音楽活動を展開していく。そしてニューヨークを拠点とした二人の生活は1980年12月8日にダコタ・ハウスでジョンが熱狂的なファンの銃弾に倒れるまで続いた。

ワン・デイ(One Day at a Time):ジョンの生涯とヨーコ

他界する3日前のインタビューでジョンはこのように語っている。「ふと考えるんだ。自分の現実は自分で作る、選択するのは自分。でもどの程度のことがあらかじめ定められているんだろうって。道はいつも二手に分かれているものなのか。どちらの道も同じくらい定められたものなのだろうか。何百もの道があって、あっちにもこっちにも行けるかもしれない。そこに選択肢がある。それが時にとても不思議じゃないか。」  

目の前にある無数の選択肢の中から常に、自身のアーティストとしての感覚を信じ、現実を生き続けたジョン・レノン。そんな彼の公私とものパートナーであり性別を超えた親友であり、時として人生の師となり魂を導いたのは彼の心に住み着いてしまった一人の東洋の女の子だった。「ワン・デイ(One Day at a Time)」でジョンが歌うように、彼が魚で彼女が海、彼がリンゴで彼女が木、彼がドアで彼女がカギ。ジョンはその短く濃厚な生涯の中である時、ヨーコのおかげであるべき自分になれたのかもしれない。

参考文献:
ジョナサン・コット(2015)『忘れがたき日々 ジョン・レノン、オノ・ヨーコと過ごして』栩木玲子訳、岩波書店
オノ・ヨーコ(1998)『グレープフルーツ・ジュース』南風椎訳、講談社文庫

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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