アンリ・マティス:時代が変わっても今でも色あせない芸術

(Public Domain /‘Portrait of Henri Matisse’ by Carl Van Vechten. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

アンリ・マティスは、1869年フランス生まれの芸術家。ピカソの生涯のライバルとしても有名。初期はフォーヴィスムの画家として知られるが、晩年は切り絵や版画作品も制作。そのモダンで洗練された作風は、60年以上前に制作されたことをまったく感じさせない。色彩がとても鮮やかであることでも有名。1954年フランスのニースで死去。享年84歳。

アンリ・マティスが活躍した時代のフランス

19世紀後半から20世紀初頭のフランスは、ヨーロッパ中の文化が集結した場所であり、その繁栄を謳歌していました。1898年にはパリ万国博覧会が開催され、それにあわせてエッフェル塔も建設されました。その栄華と繁栄は第一次世界大戦がはじまるまで、つづきます。

マティスが活躍したのは、そんな「パリが繁栄した時代」に重なります。まさに、フランス芸術の最盛期を彩った芸術家のひとりと言えるでしょう。

アンリ・マティスの生い立ち・経歴

アンリ・マティスは、1869年12月31日、フランス・ノール県に生まれました。両親は穀物ビジネスで成功しており、マティスはその裕福な家の長男として生まれました。マティス一家は、のちにピカルディ地域へ移住し、子どもたちはそこで育ちます。

父親は、マティスに裁判所の管理者として働いてほしかったため、彼を1887年パリの学校へと送ります。しかしマティスは、1889年に盲腸炎にかかってしまい、療養中に母親から贈られた一枚の絵画と出会ったことで、芸術の道へ進むことを決意しました。このことは、マティスの父を非常に落胆させることになりました。

その後、1891年にはフランス・パリのアートの最高学府であるÉcole des Beaux-Artsに入学をこころみますが、拒否されてしまいます。しかし、校内でスケッチをしていたところを、たまたま通りかかった教官から評価されます。その教官こそが、École des Beaux-Artsで指導していたギュスターヴ・モロー(1826年-1898年フランスを代表する画家)でした。マティスは、幸運なことに、彼から特別に個人指導をうけるようになります。

最初は、風景画や静物画を伝統的な手法で描いていたマティスですが、次第にシャルダンや、プッサン、マネといった後期印象派の画家や日本のアートに影響をうけ、学習をつづけます。そのなかでも、マティスは特にシャルダンの影響をうけているといわれています。

1898年には、Amélie Noellie Parayreと結婚。その後、息子二人が誕生します。前パートナーとのあいだにできた娘Margueriteと妻Amélieは、のちにマティスの絵のモデルとして、多くの絵画に登場しています。

おなじ頃に、マティスは、画家ピサロからのアドバイスをうけて、ロンドンへ渡ります。そこで、巨匠ターナーの絵を見てくるようにと言われました。その後1899年、パリに戻ったマティスは、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ロディンといったお気に入り芸術家の絵や彫刻を、買い集めるようになります。そのなかでも、セザンヌの構図や色彩センスからはおおきな影響をうけたといわれています。

1898年、マティスがロンドンへ旅行中に、恩師のギュスターヴ・モローが死去。モローのアトリエの後を継いだ画家フェルナン・コモンは、マティスが学生の適齢期を越えているとして29歳になったマティスを追い出してしまいます。しかし、マティスは、その後も長年にわたり、巨匠たちの名画から絵画を学びつづけます。

1904年の夏、画家シニャックやエドモン・クロスとサロンで出会い、彼らの画風から大きな影響をうけます。

1905年はじめて「ソシエテ・ナシオナル」に出品。伝統ある「官展」や「アンデパンダン展」をあえてさける形で、自分の作風にあった「ソシエテ・ナシオナル」に出品したことが功を奏します。出品した作品『Luxury, Serenity and Pleasure』(1904)が国家買い上げとなります。

初期の代表作『Portrait of Madame Matisse』(1905)と『Woman with a Hat』(1905)を発表。

次第に、カラフルで荒々しい画風の作品を発表するようになると、「野獣派(フォーヴィスム)」の画家として知られるようになります。しかし、野獣派としての活動は3年のみで、本人はフォーヴィスムの画家として広く認知されることを嫌がったといわれています。

代表作『harmony in red (The red room)』(1908)を発表。

代表作『The Dance I』(1909)と『Music』(1910)を発表。

よりシンプルに記号化された線と具象芸術をもとめたマティスは、切り絵に着目します。以降、切り絵のスタイルで数多くの作品を制作するようになります。

晩年は、修道院ロザリオ礼拝堂のインテリア・デザインなどを担当し、ステンドグラスにもマティスの切り絵のモチーフが使用されます。晩年、体が思うように動かなくなっても、マティスはアシスタントの力を借りて、3メートル以上の巨大な切り絵作品を造りつづけました。

その手法はとてもユニークで、アトリエの壁いっぱいに貼られた切り絵の微妙な配置を長い棒でアシンスタントに指示し、動かしてもらうというものでした。

1952年、切り絵の代表作品『Blue Nude II』と『The Sorrows of the King』を発表します。

なくなる前年の1953年も、数多くの作品を制作。

1954年11月3日、フランスのニースで心臓発作により死去。ニースの近くのMonastère Notre Dame de Cimiezに眠っています。

マティスの代表作品(年代順)

『Luxury, Serenity and Pleasure』(1904)
98.5 cm × 118.5 cm
キャンバス、油彩

マティスがはじめて公の場に発表した作品。ポール・シニャックの画風に影響をうけ、点描画で風景を描いた作品です。風景の構図や静けさは、エドモン・クロスの影響をうけているといえるでしょう。この作品は、発表されるとすぐに、国家が買い上げました。

海辺には、一艘のボートが停泊しており、砂浜では、裸の女性が余暇を楽しんでいる様子が描かれています。女性たちが取り囲んでいる敷物にはティーセットが置かれてあり、一種の社交の場であることが感じられます。ある者は海からあがってきたばかりの様子で、髪の毛の水を切り、ある者は、砂浜に横になっています。マティスの絶妙な色づかいで、淡くやさしい雰囲気につつまれた作品です。

『Portrait of Madame Matisse』(1905)

40.5 cm × 32.5 cm
キャンバス、油彩

マティスのフォーヴィスム時代を代表する肖像画です。パープル、オレンジ、ビリジャンの3色で仕切られた背景の中央には、妻Amélieが描かれています。

まるで野獣のように野生的で荒々しさを感じさせる色づかいを強調したことから、名づけられた野獣派(フォーヴィスム)。その特徴にもあげられているように、この肖像画では、光と影の関係が撤去され、光がフラットに描かれています。また、色によって空間が構成されているのも、フォーヴィスムの特徴といえるでしょう。

『Woman with a Hat』(1905)

80.65 cm × 59.69 cm
キャンバス、油彩

マティスのフォーヴィスム時代の代表作品です。荒々しく、色彩のみで仕切られた空間には、女性が描かれています。女性がかぶっている帽子は、表現が最小限におさえられています。その表情や着ている服なども表現が節約され、みる側がなかなか感情移入できないような作品です。

『harmony in red (The red room)』(1908)

180cm x 220cm
キャンバス、油彩

マティスのフォービスム時代の、後期の代表作品です。マティスの代表作のなかでも、とくに有名な作品と言えるでしょう。

赤い部屋には赤いテーブルが置かれ、女性が夕食のためにテーブルをセットしています。テーブルには、果物や、逆遠近法で描かれたドリンクが置かれ、赤一色の空間に豊かな彩りをあたえています。

中東などの敷物に興味をもっていたマティスは、装飾的な絵画にエスニック調の敷物を何度も登場させています。この作品も、そのようなスタイルのひとつと考えられます。壁とテーブルにはプルシャン・ブルーの装飾的な模様が一様におなじ大きさで描かれています。そのことが、この絵画の不思議な印象を作り出しているといえるでしょう。

左上には、窓が配置されており、窓の外の空間にテーブルの延長線が集約されていきます。このアシメトリーの構図は、もともと西洋にはない感覚で、後期印象派の画家たちが日本の浮世絵から踏襲した構図を、マティスが応用していることが分かります。

『The Dance I』(1909,1910)

259.7 cm × 390.1 cm(1909)
260 cm × 391 cm (1910)
キャンバス、油彩

マティスの代表作品のなかでも一番傑出していると評価されている作品です。グリーンの丘のような場所で、5人の裸の人びとが手をつなぎ、輪になって踊っている様子が描かれています。この作品は、マティスがフォーヴィスムと決別したあとに制作されました。そのため、フォーヴィスム的な要素は影をひそめています。

マティスはおなじタイトルの作品を1909年と1910年にそれぞれ制作しています。1909年の作品は、1910年版とくらべると、キャンバスの大きさはほぼ同じです。しかし、人間の肌の色づかいと構図が、より広がりを感じさせます。

人体は、より記号化された具象で描かれており、細かい部分の説明はありません。そして、そのことが宇宙のように広く奥行きのある背景を際立たせているといえるでしょう。その背景は、ジオットの宗教画の背景を連想させるほどです。

1910年版は、裸体の肌を暖色系の肌色に変更しており、人体も細部をよりしっかりと描いています。1909年のダンスが原始的な印象をあたえるのに対して、1910年の作品は、秩序がより前に出てきている作品といえるでしょう。

実際に作品の前に立つと、作品のその大きさに驚くことでしょう。人体は人間の等身大より大きく描かれています。

『Music』(1910)

260 cm × 389 cm
キャンバス、油彩

おなじ年に制作された『The Dance I』に似た背景をバックに、裸で楽器を演奏している人や、歌っている人たちが描かれています。そのため『The Dance I』の隣に展示されることも多く、同じシリーズの作品と考えられています。

『Blue Nude II』(1952)

116.2 cm × 88.9 cm
紙、キャンバス、ガッシュ、切り絵

マティスの切り絵作品の代表作です。この作品は、マティスがブルーのガッシュに塗った紙を女性のフォルムに切り、それを高さ116cmの白い紙に貼り、さらにはその紙をキャンバスに貼り付けたものです。よく見ると、ブルーのガッシュで塗られた表面には、色むらがあり、印刷ではないことがわかります。その作業の多さから、制作が決して楽ではなかったことが伝わってきます。

奥のあしの付け根が非常に不自然なかたちになっており、その不自然さが『Blue Nude IV』では解決されています。

おなじ年に制作された『Blue Nude IV』には、鉛筆の線がのこっており、まだ模索中のシリーズであったことがうかがえます。

『The Sorrows of the King』(1952)

292 cm × 386 cm
キャンバス、ガッシュ、切り絵

この作品は、晩年のマティスの切り絵作品のなかで、もっともサイズが大きく、有名な作品です。コラージュされた色とりどりの形は、マティスがガッシュで塗った紙を切り絵にして、キャンバスに貼り付けられたものです。黒、ブルー、ピンク、緑で仕切られた空間にシンプルに記号化された人たちが、置かれています。そこに、黄色の葉のようなものが舞い散っています。

この作品は、実は、マティスの肖像画であったといわれています。マティスは、その切り絵の一番右端にいる黒いフィギュアで、白の服をまとい、椅子にこしかけています。マティスはこの作品に、生涯をかけて集めたテーマを集約させたといわれています。

この作品は、マティスの晩年の作品のなかでは、とくに革新的な作品だと評価されました。この頃、マティスは関節炎や癌にくるしんでおり、車椅子生活を余儀なくされていました。そのような苦境でもめげることなく、アシスタントの助けを得て巨大な壁画作品にとりくんでいったマティスのアートへの情熱は、わたしたちの想像をはるかに超えるものがあったことでしょう。

【参考文献】
『西洋美術史』大沢武雄著|造形社
『MATISSE』ジョン・ジャコパス著 島田紀夫訳|美術出版社
『Henri Matisse』|公式サイト
『Henri Matisse』|Wikipedia(English)

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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