ジョン・レノン:音楽で世界を変えた男

ジョン・レノンは1940年にイギリスのリバプールで生まれました。世界的ロックバンド、ビートルズの中心メンバーとして活躍し、ストレートな物言いと飾らない人柄で愛されました。解散後は妻ヨーコと前衛的なスタイルで”愛と平和”活動に尽力しました。特に、ソロ作品「イマジン」で革新的な平和理念を人々に訴えました。40歳での早すぎる死は人々に深い悲しみをもたらしたが、その先進的な取組みは音楽の枠を超えて世界に大きな思想的影響を与えています。

生い立ち

ジョン・ウィンストン・レノンは、第二次世界大戦中の1940年10月9日にイギリス北西部の港町リバプールで生まれました。ミドルネームのウィンストンは当時のイギリス名宰相、ウィンストン・チャーチルにちなんだものです。ジョンは国中がドイツ軍の空爆に悩まされていたさなかに幼少期を過ごしました。

ジョンの生い立ちは不幸なものでした。父・アルフレッドは船乗りで不在、母・ジュリアは不倫中で、独りぼっちでとても寂しい思いをしました。6歳のときにとうとう両親は離婚し、ジョンは叔母さんのミミに育てられることになります。

こうした家庭環境の事情から、当時のジョンは学校教師たちに目をつけられる反抗的で皮肉屋の少年でした。16歳のとき、エルビス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いて衝撃を受け、初めてギターを買いました。「ロックンロールとの出会いが人生を変えた」と後にジョンは語っています。以後、当時流行していたプレスリーやチャック・ベリーに代表される50年代アメリカのロックミュージックに傾倒していったのです。

ビートルズ結成~デビュー

ギターにのめり込んだジョンは1957年、17歳のときに級友たちとロックバンド、クオリーメンを結成します。名前の由来は当時通っていた学校名でした。その夏に、地元の15歳の少年だったポール・マッカートニーと運命的な出会いを果たしました。二人が出会ったのは地元の教会でのライブでした。ジョンとポールは間もなく意気投合し、バンド仲間になりました。しかし、カレッジに入学した1958年、18歳のときに悲劇が訪れました。母・ジュリアが交通事故で亡くなったのです。ロックに生きる道を見つけた矢先、またしてもジョンは大きなショックを受けました。

その後、クオリーメンはハンブルクで下積み活動を経験しながら、メンバーの脱退や死を乗り越えていきました。結成から五年後の1962年、ビートルズと改名したジョン、ポール、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターのロックバンドはめでたくメジャーデビューを果たしました。

内面的変化

ビートルズはその革新的な音楽性とスタイルで世界に衝撃を与え、ジョンはストレートな物言いと飾らない人柄で人気者になりました。そして、メンバーの中で最も人間的に変化し、成熟したのはジョン自身でしょう。そのことは作品の変化を見れば一目瞭然です。

初期のジョンの曲は、若者受けする単調なラブソングや、カバー曲がほとんどでした。しかし、中期の「ヘルプ!」「リボルバー」あたりから、劇的に変化していきます。「ヘルプ!」「ひとりぼっちのあいつ」のように自分の内面をさらけ出した内省的な作品や、「ノルウェジアン・ウッド」のように味わい深い情緒的な作品が増えていったのです。

その内省的傾向が結実したのが、1967年の名曲「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」で、「ヘルプ!」と並ぶビートルズ時代の傑作です。故郷リバプールの生家近辺の風景を描き、熱狂的ビートルズブームに疲れ果てたジョンの郷愁が克明に映し出されています。 メロトロン(後のシンセサイザー)とオーケストラの融合によるサウンドも斬新で、映像では逆再生されるメンバーの姿が印象的です。

ジョンの変化は外見にも現れています。デビュー時にマッシュルームカットだった短髪は、中期を過ぎる頃には見事な長髪になり、新たなトレードマークとなる丸眼鏡もかけるようになりました。解散時には髭も長くなって、もはや誰だかわからなくなるほどにジョンの風貌は変わり果てています。こうした外見の顕著な変化は、精神性の変化と密接にリンクしていると考えられます。

私生活とビートルズ解散

ビートルズの目まぐるしい活動と並行して、私生活にも変化がありました。1962年の最初の結婚相手はカレッジの同級生シンシア・パウエルで、1963年には息子ジュリアン・レノンが誕生します。しかし、両親のいなかったジョンはジュリアンとの接し方が分からなかったようです。さらに多忙を極めていたため、結婚生活には亀裂が入り、1968年の離婚でジュリアンとも別れることになります。

前後して1966年、次第に周りが見えなくなったジョンは「ビートルズはキリストより人気がある」発言で、レコードの焼き打ちなど激しく非難されます。また、創作への苦悩からドラッグにも手を出し始めます。その頃のジョンを救ってくれたのは、前衛芸術家の日本人オノ・ヨーコでした。ロンドンの画廊で二人は運命的な出会いを果たし、二人は不倫関係に陥りました。”恋は盲目”の通り、二人の愛はやがてビートルズの不和の発端となり、解散にまで追い込む羽目になります。1970年のビートルズ解散を巡ってポールと裁判争いにまで発展した際、ジョンは「ゴッド」で「ビートルズも信じない」と歌っています。世界中のファンの心配をよそに、ジョンの心はビートルズからヨーコへと移っていったのです。

ソロ活動

1968年、ビートルズ解散直前にジョンはソロ活動を開始し、1969年にはヨーコと念願の結婚を果たしています。ジョンはヨーコと共に反戦デモなど「愛と平和」を掲げた政治的な活動に熱心に取り組みました。背景にあったのは国際的にも賛否が分かれていたベトナム戦争ですが、幼少期から反戦の思いがずっとあったのでしょう。二人の過激で自由奔放な活動は非難を浴び、アメリカでは国外退去を命じられるなど苦難もありました。時代が早すぎたのかもしれません。

1971年には、ジョンは自身の集大成と言える楽曲「イマジン」を発表しました。”想像しよう、国境のない世界を”――普遍的な平和へのメッセージは世界中の人々に大きな影響を与えました。映像ではジョンとヨーコが出演し、平和を暗示させる内容になっています。 この頃、ニューヨークで暮らしていたジョンは、反戦活動を理由にアメリカ政府から国外追放を言い渡されます。ヨーコと離れたジョンはロサンゼルスに移住し、実質初めての一人暮らしを経験しますが、やはり単身は寂しかったのか酒に溺れていきました。後に同名映画になったベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」をカバーしますが、やはりヨーコに”そばにいて”欲しい心情だったのでしょう。

「イマジン」の他にも、強い政治的メッセージをもつ作品を打ち出しました。”戦争は終わった”を合言葉にした「ハッピー・クリスマス」や「平和を我等に」などです。また、ビートルズ時代の「ジュリア」に続く「マザー」では、少年時代に母を亡くしたときの心的体験を見事に楽曲に昇華させています。

楽曲の特徴

ビートルズ時代の作品については、ポールとしばしば比較されます。作風の違いとして、ポールは明るくて陽気な楽曲が多いのに比べ、ジョンは陽気な楽曲と内省的で淡々とした楽曲の両方がみられることです。

ソロ時代に、その傾向は一層顕著になりました。ビートルズ時代の作風を比較的維持したポールと比べ、ヨーコとの出会いによってジョンの作風は決定的に変わりました。単純で楽天的な曲よりも、内省的作風や社会的メッセージを重視しました。後年ジョンは「ビートルズ時代の自分の曲はどれも内容が乏しいくだらないものだった」という趣旨の発言までしています。それほどに、精神性を重視するヨーコの影響が大きかったのでしょう。

ビートルズ時代の代表曲は「ヘルプ!」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」、衛星中継された「愛こそはすべて」などですが、ソロ時代を含めると、やはり「イマジン」に集約されるでしょう。「やっとイエスタデイみたいないい曲ができた」と自身も語るほど、お墨付きの素晴らしい作品です。ピアノによる静かな曲調と世界平和への理念をシンプルに表現した詞が融合し、永遠に人々の記憶に残るナンバーになっています。

休止期間

1975年10月、ニューヨークで暮らしていたジョンとヨーコにとって待望の子で、ジョンにとっての次男ショーン・レノンが誕生しました。奇しくもその日はジョンの誕生日でした。ジョンはパタッと音楽活動を休止し、五年間の空白期間に入ります。「訴えるのではなく、願うことが大事」と考え方が変わったのです。 この間、料理や育児など普通の家庭の父親のようにショーンとの時間を大切にしました。ジョンとヨーコの故郷、イギリスと日本で家族三人仲睦まじい様子が写真や映像で残されています。また、1976年には長く続いた法廷闘争に終止符が打たれ、ついにアメリカ永住権を獲得しました。1980年10月には、新たなる旅立ちや再出発をあらわす「スターティング・オーバー」を発表し、本格的な活動復帰に意気込みをみせました。

悲劇的な死

しかし、その年の12月8日に世界中のファンを悲しませる衝撃的な事件が起きました。いつも通りレコーディングを終え、夜に帰宅したジョンは自宅前で待ち伏せていた狂信的なファン、チャップマンに射殺されてしまったのです。ロック音楽に一生を捧げてきたジョンは、音楽活動に復帰しようとした矢先に突然、40歳で短い生涯を終えました。

歴史にもしもはありませんが、このとき撃たれなければ油の乗り切っていたジョンはまだまだ名曲を生み出し、ポールとの和解や、他のミュージシャンとの共演も果たしていたことでしょう。ビートルズやジョンのファンにとってこれほど残念な出来事はありません。

時代を超えて

ジョンは非業の死を遂げましたが、晩年はようやく誰にも邪魔されない愛に満ちた平穏な生活を手に入れることができて、幸せだったのかも知れません。ジョンの死後も「愛と平和」を掲げたその遺志は、後世のミュージシャン達に受け継がれています。ヨーコやショーンは平和のための展覧会やコンサートを開催しています。1995年の「アンソロジー・プロジェクト」では久しぶりにビートルズメンバーが集結し、1970年代後半のジョンの未完成デモを蘇らせ、新曲を発表しています。

国連の式典では、平和の象徴としてしばしば「イマジン」が流されます。また、2001年のアメリカ同時多発テロの際には、ラジオ局に「イマジン」のリクエストが殺到しました。ジョンの飾らない人柄は今なお愛され、その先進的な思想は世界中に足跡を残しているのです。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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