ジョージ・ハリスン:「静かなビートル」と呼ばれたビートルズのリードギター

「ジョージ・ハリスン」は1943年2月25日、イギリス・リヴァプール近郊のウェイヴァートリー区アーノルド・グローヴで誕生した。ロックバンド「ザ・ビートルズ」のメンバーとして活動し、「ザ・ビートルズ」の解散後もソロで活躍。「エリック・クラプトン」や「ボブ・ディラン」などさまざまなアーティストとの親交がある。「ザ・ビートルズ」では主にリードギターを担当。ビートルズのメンバーの中で最年少であった。

■誕生から「ザ・ビートルズ」に参加するまで

ジョージ・ハリスンは、1943年2月25日、「ザ・ビートルズ」の他のメンバーと同じイギリス・イングランド北西部マージーサイド州の中心都市「リヴァプール」に生まれました。父親の「ハロルド・ハリスン」はバスの運転手。母親は「ルイーズ・フレンチ」。「ジョージ」は4人兄弟の末っ子で上に兄2人と姉が1人います。

「ジョージ」が6歳のときに一家はアップトン・グリーン25番地に引っ越し、「ジョージ」はダヴディル・ロード幼稚園とダヴディル小学校に通うことになりました。幼年時代の同級生は「ジョージ」のことをふりかえり、教室の隅でじっとしている無口な子供だったと語っています。

小学生の頃、2番目の兄ピーターの影響でギターへの興味が芽生えます。13歳になった「ジョージ」は同じ学校に通う友達から中古のギターを購入しました。ギターを手に入れてメキメキと演奏の腕を上げていった「ジョージ」は、念願だった「Rebels」という名前のスキッフル・バンドを結成しました。

スキッフル・バンドはアメリカ発祥の音楽ジャンルです。やがてイギリスでもブームとなりました。スキッフル・バンドは、「ザ・ビートルズ」など、ロックやフォークの分野で活躍するさまざまなミュージシャンを生み出すベースになっています。

■カラの2階建てバスでオーディション

1950年代の中頃、当時はまだ「ザ・クオリーメン」というスキッフル・バンドのメンバーだった「ポール・マッカートニー」と出会います。「ポール・マッカートニー」の紹介で「ジョージ」は「ザ・クオリーメン」のオーディションを受けることに。

オーディションはカラの2階建てバスの2階で行われました。「ザ・クオリーメン」のメンバーを前にした「ジョージ」は、「ビル・ジャスティス」のロックンロールのインストゥルメンタル曲「ローンチー」を完璧に弾きこなします。「ローンチー」は最高難度のギターテクニックを必要とする曲でした。

「ザ・クオリーメン」のメンバー「ジョン・レノン」にギターテクニックを評価された「ジョージ」は、「ザ・クオリーメン」のメンバーに迎え入れられることになりました。「ジョージ」の参加と前後して「エリック」「レン」「ロッド」の3名が脱退しています。

■「ザ・ビートルズ」の時代

1957年に「ジョン・レノン」によって結成された「ザ・クオリーメン」は1960年「ザ・ビートルズ」へ改名します。1962年10月5日にレコードデビュー。メンバーの中で一番年下だった「ジョージ」は、リードギターとヴォーカル、コーラスなどを担当しました。

「ジョージ」は楽器の研究にも熱心で、当時はまだ珍しかった12弦のエレキギターをはじめ、インドの弦楽器「シタール」などをバンドの演奏に取り入れました。また、今では主流になっているシンセサイザーを導入したのも「ジョージ」です。

1968年、「ザ・ビートルズ」の通称(ホワイト・アルバム)の録音時に、不満を持っていた「リンゴ・スター」がバンドから脱退します(「リンゴ脱退騒動」ただしリンゴは1週間後に復帰している)。

「リンゴ脱退騒動」の影響で「ユー・キャント・ドゥ・ザット」や「ゲット・バック」、「アイ・ウォント・ユー」などの曲で「ジョン」がリードギターを弾き、「涙の乗車券」で「ポール」がリードギターを弾くなど、曲によってメンバー各人が入れ替わってパーツを担当するようになります。ただし、基本的には「ジョージ」がリードギターを担当しました。

「タックスマン」、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」、「サムシング」といった自作の曲で「ジョージ」はリードヴォーカルを担当しています。「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」は「ジョン」と「ポール」が、「オクトパス・ガーデン」「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」、「グッド・ナイト」は「リンゴ」がリードヴォーカルを担当しました。

「ジョージ」は「ザ・ビートルズ」の最年少であったため、当初はおとなしい目立たない存在でした。しかし、中期以降は「恋をするなら」「嘘つき女」(アルバム『ラバー・ソウル』)、「タックスマン」(アルバム『リボルバー』)などを次々に世に送り出し、次第に頭角を現すようになります。

ただし、「ジョージ」の曲はアルバムに1曲か多くて2曲が収録されればいい方でした。自分の思い通りにリードギターを弾かせてもらえないなど、徐々に「ジョージ」の不満が募っていくことになります。この不満は1969年1月に行ったアルバムと映像のためのセッション「ゲット・バック・セッション」で決定的なものとなりました。

「ジョージ」は「ゲット・バック・セッション」以降ソロ活動へシフトしていきます。結局「ゲット・バック・セッション」が「ザ・ビートルズ」解散の原因になってしまいました。

「ゲット・バック・セッション」を記録した映画「レット・イット・ビー」には、「ジョージ」と「ポール」が口論する様子が収録されています。バンド解散後「ジョージ」は、「レット・イット・ビーは最悪だったよ。まるで地獄にいるみたいだった。どんなビートルズファンでもあの空気には耐えられないはずさ」とふりかえっています。

「ジョージ」は「ザ・ビートルズ」メンバーの中でもっとも社交的な性格でした。「ザ・ビートルズ」の時代から外部のさまざまなアーティストと交流を持っています。「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギターソロに「エリック・クラプトン」を迎え、「ビリー・プレストン」をキーボード・プレイヤーとして起用しました。「ジョージ」と「ボブ・ディラン」の親交がはじまったのもこの頃です。

■「ザ・ビートルズ」の解散後

1970年4月10日、「ザ・ビートルズ」が事実上の解散をした後、「ジョージ」は初のソロアルバム「オール・シングス・マスト・パス」をリリースしました。「オール・シングス・マスト・パス」はLPレコード3枚組という異例のアルバムであるにもかかわらず、全英・全米アルバムチャートで7週連続の1位を記録しました。

「ザ・ビートルズ」が解散後「ジョージ」は、カゴから放たれた鳥のように伸び伸びとソロ活動をスタートさせます。

翌年の1971年8月、「ジョージ」は「バングラデシュ・コンサート」を主宰しました。このコンサートはシタールの先生である「ラヴィ・シャンカール」に要請されて実現したもので、「ボブ・ディラン」「レオン・ラッセル」「エリック・クラプトン」といったアーティストが参加して大成功を収めます。「バングラデシュ・コンサート」は伝説に残る20世紀最大のロック・イヴェントになりました。

「バングラデシュ・コンサート」を収録したライヴ盤は、1972年のグラミー賞で「アルバム・オブ・ザ・イヤー賞」に輝いています。

■音楽から遠のいていた1980年代の前半

「ジョージ」は1970年代の後半頃から音楽以外の活動にも興味を持つようになります。それは映画制作の分野でした。映画のプロデューサーとして成功を収めた「ジョージ」は、徐々に音楽から距離を置くようになります。

そんな矢先の1980年12月8日、「ジョン・レノン」が射殺されます。「エルトン・ジョン」や「クイーン」など、さまざまなアーティストたちが「ジョン」への哀悼歌を捧げました。「ジョージ」も「過ぎ去りし日々」(All Those Years Ago)」を「ジョン」に捧げます。皮肉にも「過ぎ去りし日々」は全米チャートで2位となる大ヒットを記録しました。

■1980年代後半・音楽への回帰

「ジョージ」に再び音楽への情熱をもたらしたのは「マドンナ」と「ショーン・ペン」が主演した映画「上海サプライズ」でした。この映画に「ジョージ」は曲を書き、シンガーソングライターでプロデューサーの「ジェフ・リン」と出会うことになります。

1987年、「ジェフ・リン」を共同プロデューサーに迎えてアルバム「クラウド・ナイン」をリリース。「クラウド・ナイン」は世界中で大ヒットを記録しました。1988年、「クラウド・ナイン」の中からシングルカットされた「セット・オン・ユー」は全米ヒットチャートで1位を記録しています。

■「ジョージ・ハリスン」の晩年

1997年、「ジョージ」は「ラヴィ・シャンカール」のアルバム「チャント・オブ・インディア」をプロデュースします。その頃、喉頭癌が見つかり、夏に手術してその後放射線治療を続けました。その後、しばらくは癌の再発はありませんでした。

3年後の2001年に肺癌が見つかり、脳腫瘍を併発していることが判明。フランスで放射線治療を受けながら療養生活に入ります。しかし治療のかいなく2001年11月29日、家族と友人に見守られながら58歳の生涯を閉じました。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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