リンゴ・スター:「ザ・ビートルズ」のおだやかなドラマー

リンゴ・スターは1940年7月7日、リヴァプールに生まれた。3歳のときに両親が離婚し、母親に育てられる。子供時代は病弱で、入院中に医者から教えてもらったドラムに興味を持つようになる。成長したリンゴはリヴァプールでトップクラスのドラマーとして知られる存在となり、「ザ・ビートルズ」のメンバーとして活躍した。ビートルズの解散後もソロ活動を続けヒット曲を連発。俳優や声優としてもマルチに活躍している。

■誕生から「ザ・ビートルズ」に参加するまで

リンゴは1940年7月7日、労働者階級の家庭に誕生しました。父のファーストネームである「リチャード」をとって、「リチャード・スターキー」と命名されます。彼が3歳のときに両親は離婚。離婚後は母親の手で育てられました。

病弱な子供時代を過ごしたリンゴは小学校を休みがちで、勉強についていけませんでした。彼が12歳のときに母エルシー・スターキーが再婚。再婚相手はペンキ職人のハリー・グレイブスでした。

入退院を繰り返していたリンゴはある日、医者からドラムの手ほどきを受けます。また、病院内で結成されているバンドのメンバーにも加わりました。このことが、後のドラムの名手としてのリンゴを運命づけることになります。

結局リンゴは学校に復帰することはありませんでした。昼間は工場で働き、夜はバーやクラブ、ダンスパーティー会場でドラムを叩くというドラム漬けの青春時代を過ごします。その頃住んでいたのがリヴァプール・トクステス地区アドミラル・グローヴ10番地の家で、この家は有名になる前の「ザ・ビートルズ」のたまり場でもありました。

リンゴはこのアドミラル・グローヴ10番地の家に思い入れがあったようで、しばしばアルバム曲の中にも登場しています。

■「ザ・ビートルズ」のドラマーとして活躍

「ザ・ビートルズ」に参加したのは、デビューする直前の1962年8月です。その当時リンゴは「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」というバンドでドラムを叩いていました。「ザ・ビートルズ」のドラマーだったピート・ベストが解雇され、入れ替わりにリンゴが加入。彼は当時、リヴァプールでも有名なトップクラスのドラマーとして名が通っていました。

工場の仕事を転々としていたリンゴは、「ザ・ビートルズ」へ参加することではじめて安定した収入が得られるようになります。1965年2月にはリンゴのファンであったモーリン・コックス(1976年に離婚)と結婚し、長男ザック(現在プロドラマー)が誕生しています。

「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」というバンドでドラムを叩いていた頃、指輪をたくさん付けていたため「リングズ」と呼ばれていたこと、「リンゴ・キッド」にあこがれていたことから、「リンゴ・スター」と名乗るようになりました。

リンゴの発音には独特なものがあったようで、彼のいささか文法的におかしな発音を「ザ・ビートルズ」のメンバーが面白がって曲にしています。例えば「A Hard Day’s Night」「Tomorrow Never Knows」「Eight Days A Week」などは、リンゴの面白い言い間違いをそのまま曲名にしたものです。

ジョン・レノンは後にリンゴのおかしな間違いをこのように言っています。「リンゴはときどき、面白い間違え方をするんだ。文法的におかしいというほどではないけれど、ちょっと素敵でジョークっぽいんだよ」。「ザ・ビートルズ」のメンバーはリンゴの面白い言い間違いを「リンゴ語」(Ringo-ism)と呼んでいたそうです。

リンゴは左利きでありながら、右利き用のドラム・セットを使用するという独特な演奏スタイルを持っています。とはいえ、曲作りに優れたジョン・レノンやポール・マッカートニーと比べれば、地味な存在だったかもしれません。しかし、「ザ・ビートルズ」のサウンドにリンゴのドラムは必用不可欠でした。曲によってドラムのリズム、間の取り方を変化させる彼のドラムテクニックは、ポール・マッカートニーのベースラインと並び音楽業界で高く評価されています。

レコード・コレクターズが選ぶ「20世紀ベストドラマー100」でも、リンゴは第2位にランクインしています。

ちなみに「ザ・ビートルズ」の他のメンバー3人は「ザ・クオリーメン」時代からのメンバーですが、リンゴだけは「ザ・ビートルズ」結成後に合流したメンバーです。そんなことがリンゴ脱退騒動にも影響しているのかもしれません。

■リンゴ脱退騒動

リンゴは2週間だけ、「ザ・ビートルズ」のメンバーから離脱したことがあります。それは1968年のこと。当時バンドは通称「ホワイト・アルバム」のセッションで「バック・イン・ザU.S.S.R.」をレコーディングしていました。

リンゴはいつも自分のスケジュールを他のメンバーに合わせていました。自分のプライベートな時間を犠牲にしていたので、自由時間がほとんどありません。それなのにポール・マッカートニーは、ドラムに座って「こうするんだよ」といちいち注文をつけました。

苛立ちが頂点に達したリンゴは、「やめてやる!」という捨てゼリフを残してレコーディングスタジオから飛び出します。彼の苛立ちの原因は他にもありました。他のメンバーから仲間外れにされているという被害妄想を抱いていたのです。

ある日、リンゴがジョン・レノンの家を訪ね、出てきたジョンにこう言います。「お前ら3人は仲良くしているのに俺だけのけ者だ。ドラムも良くないというのならやめてやるからな!」。するとジョンはこう返します「仲が良いのは君たち3人だろ?」

リンゴはポール・マッカートニーの家も訪ね、同じように「お前ら3人は仲良くしているのに、俺だけのけ者だ。ドラムも良くないというのならヤメテヤルからな!」と「ポール」に言いました。するとまた「仲が良いのは君たち3人だろ?」という返事。

その後、ジョン・レノンはリンゴに励ましの電報を送ります。ポール・マッカートニーは「君のドラムは最高だ!君は最高のドラマーだ!」とリンゴのことを褒めちぎりました。ジョージ・ハリスンはスタジオ中を花で満たしてリンゴを出迎えました。機嫌を良くしたリンゴは、2週間後に復帰しています。

リンゴ脱退騒動をふりかえり、ポール・マッカートニーはこのように言っています。「本人を目の前にして素晴らしいなんて誰も言わないさ、だけどリンゴは不安だったんだよ。君は最高のドラマーだと伝えてやる必要があったんだ」

■「ザ・ビートルズ」の解散後

1970年に「ザ・ビートルズ」は事実上の解散を迎えます。解散後リンゴはこれまでのスタンダートナンバーを集めた「センチメンタル・ジャーニー」をリリース。これを機にソロ・ミュージシャンとしての活動をスタートさせました。

1970年12月には2枚目のアルバム「カントリー・アルバム」をリリース。またシングルの「ボークー・オブ・ブルース」なども発表し、「明日への願い(イット・ドント・カム・イージー)」はヒットチャートを賑わせました。

ジョージ・ハリスンとの共作である「想い出のフォトグラフ」と「ユア・シックスティーン」は、全米チャートでナンバーワンを記録しています。1971年にはジョージ・ハリスンが企画した「バングラデシュコンサート」に参加し、大活躍しました。

1973年に発表したアルバム「リンゴ」は全米でナンバーワンを記録。またジョン・レノンやエルトン・ジョンが楽曲を提供した「グッドナイト・ウィーン」も大ヒットを記録しています。

1980年の後半にはアルコール依存症に悩まされますが、アルコール依存症患者を更生させる施設で治療を受けて再びカムバックしています。その間も映画俳優や声優としてさまざまな分野でマルチな活躍を続けていました。

1991年には放映されたアニメ「ザ・シンプソンズ」の18話「マージは芸術家」に、リンゴ・スター」役で出演。2014年に放映されたアニメ「パワーパフガールズ:ダンスパンツにご用心」にも、「フィボナッチ・スパンコール」役で出演しています。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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