コナン・ドイル:『代表作』が『最大のライバル?』


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle)は、イギリス出身の作家。代表作の『シャーロック・ホームズシリーズ』はミステリ作品の基礎を築いただけでなく、今現在でも映画化されるなど人気を博している。

■順風満帆とはいかなかった医師時代

小説をあまり読まない人でも、その名前は知っていることが多い『シャーロック・ホームズシリーズ』。そしてその生みの親として知られるコナン・ドイル。実のところ彼は、最初から作家を目指していた訳ではありませんでした。

留学先のオーストリアからコナン・ドイルが帰ってくると、母親のメアリーは生活費の足しにしようと間借り人を迎えました。その間借り人は医師でした。同じ家で暮らすうちに影響を受けたコナン・ドイルは医師を志すこととなります。

1876年にエジンバラ大学医学部に進学し、5年ほどで卒業。医師としてのライセンスを取得し、晴れて医師となりました。

しかし、医師としてのコナン・ドイルは苦難の日々を極めます。

卒業後、船医として汽船会社に就職。アフリカ行きの船に同乗しましたが、ここで乗客がマラリアに罹患し、とうとう彼自身もマラリアに。この出来事がきっかけとなり、すっかりコナン・ドイルは船医としてのやる気をそがれて退職してしまいます。この間わずか半年足らです。

その後、同級生に誘われて病院の共同経営を始めるも、こちらも患者の取り合いが原因でわずか2か月で破綻。結局コナン・ドイルはひとりで病院経営を始めます。

8年間にわたり病院経営を続けていましたが、開業地において病院の需要は既に満たされていたこともあり、決して繁盛することもなく平凡な病院経営が続いていました。そしてこの開業医時代の空き時間に副業としてやり始めたのが『執筆活動』だったのです。

■ホームズ第一作目の誕生

1882年に副業として執筆活動を始めたコナン・ドイルでしたが、最初からシャーロック・ホームズシリーズのような作品を書いていたわけではありません。初期のころは短編小説を雑誌社に投稿する日々を送っていました。『わが友、殺人者』『北極星号の船長』『J・ハバクック・ジェフソンの遺書』などが雑誌社に買われて掲載されています。
このころからコナン・ドイルは短編小説だけを書き続けることに限界を覚え、長編小説を執筆することにシフトしていきます。そして誕生したのが、コナン・ドイルにとって2作目となる、長編小説にしてシャーロック・ホームズシリーズの第1作目『緋色の研究』です。

後に世界的長編小説となるこの作品ですが、完成が1887年4月だったにもかかわらず掲載は1887年11月号と出版社探しになかなか苦戦しています。しかし、掲載されるとそのおもしろさはすぐに多くの人へと広まり、翌年には念願の単行本化もされています。

■医師としての挫折と小説家としての成功

長編小説を書き上げ、掲載に至ったとはいえコナン・ドイルにとってあくまで本業は『医師』。

1890年に、近代細菌学の開祖としても知られるロベルト・コッホの結核治療法の講演会を聴講するべくドイツのベルリンに向かいます。結局、講演会のチケットを手にすることはできませんでした。また、このときベルリンで突如眼科医への転身を決意。

診療所を閉め、オーストリアに移住してまで眼科医資格取得のために人生を賭けますが、ドイツ語が理解できずに挫折。その後なんと無免許のままロンドンで眼科医となります。しかし、そもそも眼科医自体目新しくない上に無免許だったため全く流行ることはありませんでした。

医師として暇になった分、執筆活動に割く時間が増えます。

長編小説に鞍替えをしていたコナン・ドイルは、この頃シャーロック・ホームズを主人公として2つの作品を書き上げたこともあり、彼をシリーズ化することを思いつきます。計12編に渡る『シャーロック・ホームズの冒険』の誕生です。これが爆発的な大ヒットとなりました。

医師としての挫折と小説家としての成功。この結果としてコナン・ドイルは診療所を閉めて完全に小説家として生きていくことを決めます。

医師として芽が出なかったからこそ、小説家コナン・ドイルは誕生したのです。

■売れすぎたホームズシリーズ

しかし、小説家として成功をするにあたって「コナン・ドイルが医師を志したこと」は非常に重要な要素です。

そもそも彼が小説に興味を持ったのも、エジンバラ大学の通学路に古本屋が多数あった為でした。また、シャーロック・ホームズのモデルとなった人物、ジョセフ・ベル教授との出会いも在学中のことでした。少ないヒントから患者の状況や生い立ちをズバリと言い当てる教授のすごさは、正に小説の主人公とするにもってこいだったといえるでしょう。

そんなコナン・ドイルでしたが、シャーロック・ホームズが高く評価され、ブームになればなるほど苦悩の日々を送ることになってしまいます。「作家として人気を博したのではなく作品が人気を博した」という状況に陥ってしまったためです。

このころ送られてくるファンレターのほとんどは「コナン・ドイル宛」ではなく「シャーロック・ホームズ宛」。サインを求められても「シャーロック・ホームズのサインを」と言われるようになりました。

元々、コナン・ドイルは歴史小説で自らを売り出したかったこともあり、この状況は彼にとって好ましい状況ではなく、次第にホームズを嫌うまでになります。

■待望の歴史小説執筆もつきまとうホームズの影

シャーロック・ホームズシリーズの成功は、コナン・ドイルを小説家として世間一般に認めさせるに十分すぎるものでした。シリーズの連載が終了した後、本来彼の書きたいジャンルであった歴史小説を、アメリカの亡命をテーマにした『亡命者』を執筆。イギリスとアメリカの両国にて連載されました。

しかし評判はまずまず止まり。それどころか、新作を発表したことで余計にホームズシリーズの続編を望む声が多くなってしまいます。

特に躍起になっていたのは、ホームズシリーズを連載した『ストランド・マガジン誌』。ホームズシリーズのお陰で爆発的に発行部数を伸ばしていた同誌にとって「載せれば売れる」状態である今を逃す手はありませんでした。

コナン・ドイルはそんなストランド・マガジンを諦めさせるために「1000ポンド払うなら続きを書く」と、破格の条件を突き付けました。最初のホームズシリーズが1編35ポンドであったことを考えると約3倍の価格です。

流石に諦めるだろうと思っていたコナン・ドイル。しかしストランド・マガジン誌はなんとこの条件に応じてしまい、書く以外の道がなくなってしまいました。

贅沢な話ですが、書けば書くほど儲かるような作品であるにもかかわらず、もうホームズシリーズを書きたくはなかったコナン・ドイル。そこで彼はホームズから逃れるために『最後の事件』の中でホームズを死んだことにしてしまいます。

その後、1894年からナポレオン戦争時代を描いた歴史小説である『ジェラール准将シリーズ』を執筆。これまでに書いた歴史小説からすれば比較的人気を博したものの、依然としてホームズシリーズを望む声は大きいものでした。

その後1901年、コナン・ドイルは『バスカヴィル家の犬』を書き、今一度ホームズシリーズを執筆。その後も短編13編を書き上げ、ファンを大いに喜ばせることになります。

■『友』であり最大の『ライバル』

晩年、シャーロック・ホームズシリーズについて「こんなに長く書くことになると思わなかった」と語っていたコナン・ドイル。誰よりも彼自身が一番、シャーロック・ホームズシリーズがここまで世間に認められる作品になるとは思っていなかったことでしょう。

彼が世間に認められるきっかけとなったのは間違いなくシャーロック・ホームズシリーズがあったお陰です。ですが、その一方であまりに人気を博したために「コナン・ドイル=シャーロック・ホームズ」という図式が出来てしまったのもまた事実でした。

そんな図式が出来上がってしまった結果、コナン・ドイル自身が本当に書きたくて書いた、読んでもらいたかった歴史小説たちは埋もれてしまい、それは今日まで至ります。

コナン・ドイルにとってシャーロック・ホームズは、自らの小説家人生を共に創り上げてきた『友』でありながら、自らの他の作品を発表する際超えなければならない、強大すぎる『ライバル』でもあったともいえるでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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