フォルクスワーゲン:世界の『国民車』

フォルクスワーゲン(Volkswagen AG)は1937年にドイツで設立された自動車メーカー。代表的な生産車の『フォルクスワーゲン・タイプ1(ビートルの愛称でも知られる)』の大ヒット以降も世界トップメーカーとして君臨し、2016年には初の年間販売台数世界一となった。

■社名の由来はあのヒトラー

フォルクスワーゲンはドイツ語で『国民車』を意味し、この社名には非常に大きな意味があります。

時代はアドルフ・ヒトラー率いるナチス政権にまでさかのぼります。この時代、ヒトラーが掲げた政策のひとつに『道路事業』があり、ヒトラーは高速道路建設に着手します。有名な『アウトバーン』の建設です。

ちなみにこの建設の目的は交通網整備の他に当時の世界恐慌によって失業した600万人以上の国民の働き口を作り出す目的もありました。

ただ道路を作っただけでは意味はありません。今でこそワーゲンは世界的自動車メーカーにまで成長しましたが、創立前のドイツはほかのライバル諸国に比べて車の保有率が非常に低い『自動車後進国』。そこでヒトラーは次の手を打ちます。

1933年に開催されたモーターショーにおいてヒトラーは「これからは鉄道ではなく車の時代、そして自動車を富裕層の特権にしておくのではなく、国家を支える国民皆が所持するべきだ『一家に一台車を!』」と演説。実際にこの宣言を実行に移すため、ポルシェの生みの親でもあるフェルディナント・ポルシェを設計士に迎え『フォルクスワーゲン』を設立します。フォルクスワーゲンは社名に違わず、正に「国民の為の車」を作る為に立ち上げられたのです。

そして1938年に、フォルクスワーゲンの代名詞ともいえるビートルの原形『Kdfワーゲン』が完成。低燃費でありながら最高速は100キロ以上を出すことが可能なこの車は、当時としては非常に高いレベルであり、ドイツの技術力を存分に盛り込んだ1台でした。

大量生産の為に街まで作られ、30万人を超える申請者が週ごとに積立金を払い、マイカーを持つことを夢見ていましたが、結局彼らの元に1台としてワーゲンが届くことはありませんでした。

第二次世界大戦が勃発したことによりフォルクスワーゲンは国民の車ではなく戦争の為の兵器を作り始めざるを得なくなってしまった為です。

■何とか生き残ったフォルクスワーゲン

第二次世界大戦でドイツは敗戦。領土は連合国側に接収されることとなり、フォルクスワーゲンの生産工場も撤去されようとしていましたが、直前でイギリス軍が管理下に置くこととなります。

フォルクスワーゲンの工場を管理するように指示されたイギリス軍少佐のアイヴァン・ハーストは、戦争で全壊状態だった工場を建て直して生産を再開。車名も『Kdf』改め『タイプ1』としました。アイヴァン・ハーストはワーゲンの性能を高く評価しており、1947年にはオランダへの輸出も開始します。

フォルクスワーゲンにとってある種幸運だったのは、イギリスやアメリカが工場を視察した際に「管理をする価値もない会社である」と判断した点です。その結果、フォルクスワーゲンはドイツの独立系企業として認められ、発展を約束されたのです。

■とある人物の『再評価』がきっかけに

1948年になり、フォルクスワーゲンはドイツ管理下に戻されることになりました。その際最高責任者に迎え入れられたのが戦前のドイツ最大の自動車メーカー『オペル』の取締役にして技術者でもあったハインリッヒ・ノルトホフ博士でした。

彼は以前からポルシェ博士に強い対抗意識を持っており、戦前に試作段階だったポルシェ博士制作のエンジンを見て「贅沢すぎる、これは航空機用のエンジンだ」と激しく非難をしていました。

しかし、自らが最高責任者に就任するにあたり今一度フォルクスワーゲン・タイプ1を分解・組立・テスト。その結果、自らの戦前の評価は誤りであったことを認めタイプ1の優秀さに気づくことになります。

元々敏腕経営者として知られていたノルトホフ社長は積極的に現場に赴き、生産効率向上の道を探りました。また従業員たちに自分たちの制作している車がいかに素晴らしいかを説明し士気を上げ、本格的に増産へ向けて動き出します。

この時の方針としてもうひとつ、後のフォルクスワーゲンの大躍進につながったのが、ノルトホフ社長が強く海外輸出を推し進めていたという点があります。そんな潮流の中とうとう、第二次世界大戦で敗北したアメリカへと1949年に輸出を開始。最初はたったの2台のみでした。

■アメリカでの成功そして世界一へ

ハインリッヒ社長はまず、アメリカへ輸出するにあたり本国から技術者を送り込み、各地にサービスディーラーを設置しました。これによりアメリカのワーゲンオーナーはその初期流通数からは考えられないほどの手厚いサービスを受けることが出来ました。

同時に、戦争直後に「フォルクスワーゲンに価値はない」と言い切った内の一人である、ヘンリー・フォード2世率いる『フォード』をはじめとしたアメリカの自動車メーカー各社はフォルクスワーゲンの輸入に際し「あの恐ろしい世界大戦中のドイツを思い起こさせるような車がアメリカで売れる訳がない」と、ほとんどノーマークでした。

しかしそんな予想は裏腹にタイプ・1はアメリカで大成功をおさめます。初輸出から5年後の1954年には6000台を超える販売数をマーク。更にその3年後には10倍となる6万台と、爆発的な勢いでアメリカ全土に広がっていくこととなります。

こうした、積極的な輸出戦略も相まって戦争終了から10年足らずでタイプ・1は総生産台数100万台を突破。

その後も世界中から需要は高まり続け、とうとう1972年、当時フォードが所持していた自動車生産台数の世界記録であった1500万7033台を超え、文字通り『世界で一番売れた自動車』となったのです。

■タイプ・1からの脱却を目指して

しかし、タイプ・1の世界中での人気は、良いことばかりではありませんでした。

「フォルクスワーゲン=タイプ・1」というイメージがあまりに先行しすぎてしまったがために、後続のリリース車たちの売り上げが思った以上に伸びなかったのです。結果としては、1974年にリリースされ、今でもフォルクスワーゲンの看板カーでもある『ゴルフ』の成功まで、約30年間近くヒットとなる車を産み出すことが出来ませんでした。

1976年にこのゴルフの生産台数が100万台を超え、商業ベースとして軌道に乗るとその2年後となる1978年。フォルクスワーゲンの代名詞であり、フォルクスワーゲンを創り上げたタイプ・1の欧州生産を終了させることとなりました。

とはいえ、タイプ・1はあくまで欧州での生産を終了したに過ぎず、南米のメキシコでは2003年まで生産され続け、その累計生産台数は2150万台を突破しました。

■「ドイツの国民車」から「世界の国民車」へ

タイプ1がアメリカでリリースされた当初の、アメリカ自動車メーカー各社が下した評価の様にアドルフ・ヒトラーが率いたナチスドイツは非常に否定的な意見が多く、また、未だ嫌悪を抱く人々が多数存在します。

そういった中で唯一、その時代の『正の遺産』と呼ばれているのがフォルクスワーゲン、タイプ1の存在でした。当初のヒトラーが思い描いていた形の『国民車』とはなりませんでしたが、フォルクスワーゲンは時代を超え『世界の国民車』として今も愛され続けています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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