ベートーヴェン:苦悩の人生を歩んだ大作曲家

(Public Domain /‘Portrait of Ludwig van Beethoven when composing the Missa Solemnis‘. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は、ドイツ出身の音楽家。ハイドン、モーツァルトらと共にウィーン古典派三大巨匠ともいわれ、またロマン派音楽の先駆けとも呼ばれる。主な作品に『交響曲第5番』『交響曲第9番』などがある。

■音楽家一族に産まれながらも…

1770年、宮廷勤めのテノール歌手であった父ヨハンと、宮廷料理人の娘であるマリアの間に誕生したのがルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンです。

ベートーヴェンの生家は、父であるヨハンや祖父ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(ベートーヴェン自身と同名)、からもわかるように音楽家の一族。しかしベートーヴェンの父であるヨハンは、無類の酒好きということもあり思うような活動はしておらず、家計は祖父の収入にほぼ頼る形になっていました。

そして迎えた1773年。一家の屋台骨であった祖父が亡くなると、生活は一気に困窮を極めます。酒に溺れ切ってしまっていた状態のヨハンには最早家族を食べさせていくだけの器量はなかったのです。そこでヨハンは幼少期から天才音楽少年として大人気となっていたモーッツアルトのようにベートーヴェンを仕立て上げようと、弱冠4歳の彼にあまりに厳しすぎるスパルタ教育を施します。

ベートーヴェンはヨハンの期待に応えるかのように凄まじいスピードでピアノの技術を向上させます。また、演奏だけでなく自ら即興演奏や曲を作成するまでになりましたが、父ヨハンはそういった「音楽的楽しさ」を徹底的に排除し繰り返し基礎を練習させます。

そういった影響もあり一時は音楽に嫌悪を抱くレベルにまでなってしまったベートーヴェンでしたが、父ヨハンの教育と何よりベートーヴェン自身の才能もあいまって、1779年、わずか8歳の若さで演奏会に出演。音楽家としての人生を歩み始めました。

その一方で、10歳にして小学校を退学。彼は普通の少年としての人生を歩むことはできなくなってしまったのです。

■モーツァルトとの出会いと最愛の母との別れ

働くことのない父の代わりに家計を支えるようになったベートーヴェンに大きな転機が訪れたのは1787年。当時16歳だったベートーヴェンは兼ねてより憧れ、自らを音楽家の道に勧めさせる要因となったモーツァルトへ弟子入りしようとウィーンにいた彼を訪ねます。

モーツァルトはベートーヴェンの演奏を聴き、その才能を高く評価し、弟子入りを認めました。しかしそのタイミングで母親であるマリアが危篤との知らせが飛び込み、ベートーヴェンはすぐさま帰国することとなります。

結果、マリアは肺結核が悪化し死去。ベートーヴェンにとって母であるマリアは、ヨハンのスパルタ教育に傷ついたベートーヴェンを癒すだけでなく、祖父の死後には仕事を掛け持ちして家族を支え続けた大切な存在でした。

母の死は決して精神的な部分だけに影響を与えただけではありません。妻が死んだ悲しみに耐えきれなくなった父のヨハンはこれまで以上に酒に溺れ、とうとう失職。母とふたりがかりで支えてきた家計をひとりで支えざるを得なくなってしまったベートーヴェンは、モーツァルトへの弟子入りどころではない日々を送ることとなってしまいます。

■音楽家としてのスタートと挫折

母の死後から5年後の1792年『交響曲の父』と呼ばれる偉大な音楽家ハイドンにその才能を認められて弟子入り。父の死と同時期にウィーンへ移り本格的に音楽家活動をスタートさせます。ただこの頃のハイドンは非常に多忙であり、教わることはあまりなかったそうです。

この時期のベートーヴェンの作風はモーツァルトやハイドンの影響を受け非常に明るく前向きな曲調のものを多く残しています。またその中で『即興曲の名手』と呼ばれたベートーヴェンは当時あまり主流ではなかったピアノを主役とした曲を作り周囲を驚かせました。

しかしそんな日々は長く続きませんでした。ベートーヴェンの有名なエピソードである難聴の悪化により、耳が聞こえなくなってしまいます。

曲を作り、音楽を奏でる音楽家にとって聴力を失うということがどれほどの絶望だったかは、当事者でない私たちであっても想像に難くないでしょう。

ベートーヴェンは『ハイリゲンシュタットの遺書』を残し、その命を絶とうとする一歩手前まで考えましたが「私を引き留めるのはただ芸術への思いだった」と述べ、思いとどまります。

■聴覚を失うことで訪れた全盛期

とはいえ、これまでのように作曲活動に取り組む訳にはいきません。ベートーヴェンは自らの作曲活動を存続させるために特注のピアノを注文。口にくわえたタクトの振動で音を聞き分けて作曲を続けました。また、当時まだ一般的ではなかったメトロノームも活用。こうしてベートーヴェンは逆境に立ち向かいながら音楽家としての道を歩み続けました。

そうして作られたのが1804年の『交響曲第3番英雄(エロイカ)』。当時、自らと同じく平民から世紀の英雄となったナポレオンに強い敬愛の念を抱いていたベートーヴェンが彼に捧げるために作り上げた曲でしたが、完成後ナポレオンが皇帝に就任したことに激怒。曲名を変えてナポレオンに送ったといわれています。

しかし、作曲された音楽はこれまでのベートーヴェンの曲だけでなく音楽の歴史を変えるほどのものでした。これまでの交響曲の約2倍の演奏時間であることに加え、その節々に宿る力強さは聞くものを圧倒。正に『新生ベートーヴェン』を印象付ける作品となり、後の『ロマン派』と呼ばれる音楽家たちの地盤を作り上げました。

ベートーヴェンの代表曲ともいえる『交響曲第5番』が作られたのもこの直後。印象的な曲の冒頭を「運命が扉をたたいてくる音」と称したことから『運命』とも呼ばれています。緻密に練られ、曲から主題やストーリー性が浮かんでくるような非常に完成度の高い子の交響曲第5番も、後世の作曲家たちに大きな影響を与えました。

■長いスランプと『交響曲第9番』

自らと向き合うことによって新たな境地を切り開いたベートーヴェンでしたが、1815年頃から様態が悪化し始めてしまい作曲活動自体は続けていましたが、交響曲第8番から交響曲第9番までの間に12年間を要することとなります。難聴を患ってから作成された交響曲3番から8番までを8年ほどで作り上げたことから考えると、その苦悩ぶりがうかがえます。

この頃のベートーヴェンは、全ろうとなったことに加え、神経症とされる腹痛や下痢といった自身の体の不調と、たびたび非行や自殺未遂を繰り返す甥・カールの後見人という立場に悩み、精神的にも肉体的にも非常に疲弊していた時期でした。

そうした困難を乗り越えて出来上がった『交響曲第9番』は、正に渾身の一曲だったといえるでしょう。第九の魅力であり特徴のひとつである第四楽章の合唱『歓びの歌』は、ベートーヴェンが22歳の頃に感銘を受けたシラーの詩『歓びに寄す』が用いられています。20年余りの時をと数々の挫折や苦難を乗り越えて、ベートーヴェンは若き日の自分がインスピレーションを受けた言葉に音楽を乗せたのです。

そして交響曲第9番初演の3年後。ベートーヴェンは56歳でこの世を去ることとなります。

■苦難がゆえに産まれた数々の名曲

類まれなる音楽の才能を持ちながら、幼少から青年期まで好きなように、まともに音楽に打ち込むことのできない環境下にあったベートーヴェン。更に20代後半期には難聴を患ってしまったことを考えると、彼が心身ともに健康的な状態で音楽家として活動できていたのはほんの数年間だったことがわかります。

ですが、もしベートーヴェンの父親が厳しく音楽を教えていなかったとしたら?

モーツァルトにそのまま弟子入りしていたとしたら?

ベートーヴェンが難聴を患っていなかったとしたら?

もし、ベートーヴェンが自身の人生に絶望して途中で命を絶っていたとしたら?

現代の音楽シーンは、今とは全く異なったものになっていたかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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