レオナルド・ダ・ヴィンチ:人類史に残る大天才

レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci )は、イタリアはルネッサンス期の芸術家。著名な作品に『モナ・リザ』『最後の晩餐』があるが、絵画だけでなくその才覚を発揮した美術、学術は非常に多岐にわたる。

■モナ・リザに遺される逸話の数々

レオナルド・ダ・ヴィンチが後世に遺した数々の物事の中でも、特に愛され研究され続けているのが『モナ・リザ』。その何とも言えない独特な微笑みは惹きこまれる何かがあります。

モナ・リザを語る上で最も多く議題に上るのが「モナ・リザのモデルはいったい誰なのか」という論議。

最も有力と言われているのは、『モナ・リザ』を依頼したとされているフィレンツェの商人、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻である『リザ』がモデルになっているという説が有力です。タイトルのモナ・リザも「愛するリザ・リザ婦人」という意味合いの為、説得力の強い説です。

この説を裏付けるべく、2012年にはリザが埋葬されたとされる修道院跡の遺骨発掘作業が行われ、本人のものと断定されましたが肝心の頭蓋骨は発見されませんでした。

その他にもモナ・リザは「レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像と顔を重ねるとピッタリと重なり合う」という事象から導かれた「モデル本人説」や、フランス人科学者のパスカル・コット氏は「モナ・リザのキャンバスはもともと4回描きなおされており、リザは3人目。4人目にそのリザを基にしてそのまま描かれた女性がいる」と、提唱しています。

「モナ・リザに隠された文字」も有名な話でしょう。右目には『LV』の文字が描かれており、これはレオナルド・ダ・ヴィンチの頭文字と言われていますが、左目には『B』または『S』あるいは『CE』と読み取れる文字が描かれています。

また、モナ・リザの右肩後ろにある橋にも数字の『72』か『L2』ととれる文字が描かれており「これらは偶然描かれたものでなく意図的に隠されたものだ」と結論付けられています。

たった一枚の、女性の絵画に軽く触れるだけでもこれだけの謎やエピソードがあふれ出るレオナルド・ダ・ヴィンチ。

ですが今回は敢えて、普段はあまり語られることのないレオナルド・ダ・ヴィンチの「芸術家ではないレオナルド・ダ・ヴィンチ」をご紹介します。

■芸術家としてではないレオナルド・ダ・ヴィンチ

レオナルド・ダ・ヴィンチには多彩な才能があるのはご存知の通りですが、彼は「戦争兵器」にも強く興味を持ち、深い知識を所持していました。

1482年、レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノへと拠点を移します。この理由に関しては諸説ありますが、目的はただひとつでした。ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに自分を売り込むためです。

その際、スフォルツァに宛てた自己推薦状には「櫓や城砦を破壊する兵器の作り方」「大砲や散弾の改良」「戦車の作り方」「投石機の改良」といった、戦争や軍備にまつわる設計や製作が可能であることを10か条にも並べ連ねます。

そして雇い入れられたレオナルド・ダ・ヴィンチは次々に軍事用兵器を開発していきます。現代の軍備では当たり前になった戦車・装甲車の原形となった『戦車』は、人力で車輪を回して自走。そして装甲の間から発射可能な大砲を備えたものでした。

また、ヘリコプターの原形となる『螺旋プロペラ飛行機』も開発。当時からプロペラの考え方自体はありましたが、ここまでしっかりと形にしたのはレオナルド・ダ・ヴィンチが初めてといわれています。

こういった「戦争に利用できる発明」だけでなく、都市開発・計画についても考えを打ち出します。

(Public Domain /‘Town plan of Imola’ by Leonardo da Vinci. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

当時のミラノはペストが蔓延しており、人口の3分の1が罹患。更に、5万人以上が死亡するという未曾有の事態に陥っていました。この原因を「都市中心部に人口が密集して非常に不衛生な為」と分析したレオナルド・ダ・ヴィンチは、まず中心地を大きな広場にして放射線状に都市を拡張する計画を立てます。

また、ミラノを中心として郊外に10の都市を環状線的に作りそこに人口を分散。今でいう『衛星都市』の走りともいえる計画を打ち出していました。

戦争兵器に、都市開発。どちらか片方に優れているだけでも素晴らしい才能ですが、レオナルド・ダ・ヴィンチが天才的であったと今一度思い知らされるのは、これだけの戦争に関する発明を作っていた上で、芸術家として代表作のひとつである『最後の晩餐』を描き上げていたという点。

正に人智を超えた、とんでもないマルチタスクぶりを発揮していました。

■レオナルド・ダ・ヴィンチの目に秘密が?

2018年10月、レオナルド・ダ・ヴィンチ自身の才能の謎を解き明かすにおいて非常に興味深い論文が発表されました。レオナルド・ダ・ヴィンチ自身がモデルとなった彫刻や絵画などを調査したところ「一貫して-10.3度の外斜視角として彫られ、描かれていること」が判明しました。

斜視の場合、両目ではなく片方の目で対象を見ることが多く、逆に言えばこれは両目が別々に使われているということにもつながります。

つまり、普通の人では同一にしか見えないものを別角度や別の見方をすることが可能な為、立体的かつ多角的に観察することに長けている場合が多く。その特性をレオナルド・ダ・ヴィンチも自らの作品や設計図の数々に活かしていた可能性が出てきました。

ちなみに芸術家には斜視が多く存在するといわれており、あのパブロ・ピカソもそのうちのひとりだといわれています。

■『ダ・ヴィンチのメモ』から見えた本質

後世に残る素晴らしい作品と、数々の発明を世に送り出してきたレオナルド・ダ・ヴィンチ。そんな彼の『ダ・ヴィンチのメモ』が見つかっています。

そこには、彼が取り留めもなく書いた様々なことに関するメモの他に「やりたいこと、やらなければならないことリスト」のようなものも書かれていました。

「ミラノを描く」「ミラノ郊外の寸法を計算する」「宮殿の寸法を明らかにする」といった、建築に関することから、その当時の数学者や科学者に自分の興味を持った分野について聞くという「会う人リスト」まで。中には「算術の達人に会う」といった、非常に曖昧な目標まで書かれていました。

この、ダ・ヴィンチのメモから、彼が非常に多くのありとあらゆる物事に対して興味と関心を常に抱いていたということがわかると同時に、彼の天才的な作品や発明の数々は多くの物事を学んだ『基礎的部分』があってのものであり、才能だけでなく非常に勉強熱心であったことも、レオナルド・ダ・ヴィンチが後世に残る数々の作品を残すひとつの要因だったことがわかります。

ちなみにレオナルド・ダ・ヴィンチは美青年としても知られており、彼自身が他の絵画や彫刻のモデルとなった作品もあります。

天は二物を与えずとはよく言いますが、規格外の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチにはどうやらそんな言葉すら通用しなかったようです。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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