ウィリアム・ターナー:風景画から輪郭を消しさった英国ロマン主義の巨匠

(Public Domain /‘Portrait of Joseph Mallord William Turner’ by Charles Turner. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

18~19世紀、イギリスのロマン主義を代表する巨匠ウィリアム・ターナー。史上最年少27歳にして、王立アカデミーの正会員に選ばれる。イギリス近代美術の先駆けであり、印象派クロード・モネに大きな影響を与えた。ターナーの風景画は、”光の画家”と呼ばれる鮮やかな光の描き方が特徴であり、それはモネが「印象 日の出」を描き印象派が誕生する35年も前に描かれたものだった。老いてなお挑戦し続けたターナーの人物像と作品に迫る。

(House where Turner was born. Magasin Pittoresque 1882.)

ロンドンのコベントガーデンで生まれたウィリアム・ターナーは生涯をロンドンで過ごしました。建築学に興味があったものの、絵画に力を入れるようになったのが14歳。76歳で亡くなるまで風景画を描き続けました。
ターナーの作品が支持されはじめたのは1840年ころからです。鮮やかな光の入れ方により、”光の画家”とも呼ばれました。

(Public Domain /‘The Fighting Temeraire tugged to her last Berth to be broken up’ by William Turner. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

反面、プライベートでは生涯を通して物議を醸す人物でした。
小柄でずんぐりした自身の体型やイギリス労働者階級で使われるロンドンのコックニー訛りに大きなコンプレックスがあり、常に不仲な両親を見ては独り闇の中で苦しんで育ちました。
ターナーは秘密主義で知られています。他人に心を開かず、精神疾患を患っていた母を恥じ、ひたすら周囲に隠し続ける生活を送っていました。

(Public Domain /‘Norham Castle, Sunrise’ by William Turner. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

●ウィリアム・ターナーの経歴とコンプレックス

まずは、ウィリアム・ターナーの経歴、そして持っていたコンプレックスをみていきましょう。

1775年 ロンドン下町コベントガーデンに生まれる。

父親ウィリアムは理髪店を営んでいました。母親メアリはターナーが10歳になった頃から精神疾患を煩い、入院することもあったほどでした。そんな時期にはターナーは親戚の家での生活を余儀なくされることもあったようです。彼は教育をほとんど受けておらず、下町訛りのコックニーアクセントを馬鹿にされて育ちました。
彼は自分に自身がなく、ただ心の拠り所として絵筆をとり続けました。
ただ、若いころから絵の才能には非常に恵まれていたのです

1786年 ケント州のマーゲイドに移り、風景画を描き始めます。

1788年 風景画家トーマス・マートンに弟子入りし、基本的なテクニックを学びました。

1789年 奨学金を獲得、王立アカデミー付属美術学校へ入学。絵画に集中するようになります。

1790年 作品をアカデミー展に初出品。パンテオン劇場で舞台の背景を描く仕事をし、学費を賄っていました。

1796年 初の油絵を発表。批評家から絶賛され、名声を得ました。

下町育ちで自分の容姿にコンプレックスを持っていたターナーは人前に出ることを嫌い大変無口で、態度もぶっきらぼうでした。
精神疾患のある母親のことも、絵画のテクニックについても他人に語ることなくただ黙々と作品を描き続けていました。
しかし、描く絵は写実的な美しい風景という、当時アカデミー受けする分野であったため、それがターナーの輝かしい経歴につながっていきます。

1799年 王立アカデミー準会員になりました。

王立アカデミーのメンバーに選ばれるということは、その分野で高い評価を受けている職業芸術家ということが証明されたということでした。

1802年 ヨーロッパを旅し、多くの美術作品を目にします。史上最年少27歳で、王立アカデミー正会員になりました。

順調に出世を果たしていくターナーですが、貴族や裕福な家の出身者が多くを占める会員から喧嘩っ早くて言葉使いの荒いターナーに苦情が出始めます。しかし、ターナーは独自の距離感を保ちながら、最終的にはアカデミー副会長の座にまで登りつめることになります。

1804年 自宅ギャラリーを開設。1799年から精神科病院に入院していた母親が死亡。

1807年 王立アカデミー教授に就任。地形製図技師に学んだ経験を活かし、”透視投影図法”の授業を受け持ちました。

1819年 44歳、イタリア旅行へ行く。
ターナーはこの旅行で特にヴェネチアの街に刺激を受け、これ以降、画面における”大気と光の効果”を追求することになりました。ターナーの絵は色鮮やかに、そして抽象的になっていきます。

1829年 最愛の父親の死亡。

母親が精神科病院へ入院した後のターナーは、父親と生活を共にしていました。2人の生活はとてもうまくいっていたため、父親が死んでからのターナーはショックでうつ病になり、さらに奇行が目立つようになっていきます。

1846年 71歳、アカデミーを辞職。アカデミーには40年余り在職していました。

1851年 コレラを患い、76歳で亡くなります。遺体はセント・ポール寺院に埋葬されました。

それでは、ターナーのマスターピースを紹介しましょう。

●輪郭が消えた晩年のマスターピース

ウィリアム・ターナーは、風景そして当時のテクノロジーに大変興味があり、蒸気機関車や蒸気船をいくつも描いています。

アカデミー正会員に選ばれ、美しい光の印象を与える写実的風景画を認められ出世してきたターナーですが、その技法に固執することはありませんでした。

それは彼の関心が「物の形を正確に描く」ということだけへの執着から、その場面の「印象」を描き出すことへ移行していったためです。

晩年に近づくほど、ターナーの作品から”輪郭”が消えていきます。
周りの批判に耳を貸すことなく、ターナーは独自の表現を探し求めました。

ターナーが探し求めた末の、晩年のマスターピースを紹介します。

(Public Domain /‘Rain, Steam, and Speed – The Great Western Railway’ by William Turner. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

<雨、蒸気、速度ーグレート・ウェスタン鉄道>
1844年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー

晩年のマスターピース。近代化を象徴する蒸気機関車が雨の中で蒸気をあげ、テムズ川に架かるメイドンヘッド橋を渡る風景を描いた一枚。白塗りの地を活かし色調を高め、かつ、即興的な筆使いが見られます。

グレーががった空と雲の切れ目からみえる淡いブルー、茶色のメイドンヘッド橋と蒸気機関車が全体的に黄金とも言える黄色で包まれており、激しい雨で煙っているその瞬間の温度を見事に表現しています。

この作品は、鉄道で移動していたときに大雨に降られ、ターナーが車窓から身を乗り出しながら描いた作品と言われています。

●ターナーという人物をもっと知る

最後に、もう少しターナーという人物について紹介しましょう。
画家としては幼いころから才能を発揮し、教育を受けられない下町の出でありながら王立アカデミー副会長の座まで登りつめ、その作品は生涯2000点以上の絵画、19000点のデッサン・スケッチがあると言われています。
17歳でウェールズを訪れて以降、50年間に20回以上海外へ写生旅行に出かけました。

大変な倹約家でケチと言われたターナーですが、多くの作品を手元に残していました。
すでに名声を手に入れた画家であったターナーは売れば相当な金額を手にできると理解していましたが、気に入った作品は決して手放さなかったと言われています。
しかし、晩年には自分の展示室を造る条件で、300近い油彩そして2万点近い水彩画が国立博物館に寄贈されました。
今では、その多くがロンドンのTate Galleryに収蔵されています。

少年時代から、その多くの時間を描くことに費やしてきたターナー。
彼は生涯、独身でした。不仲の両親を見てきたことや、自分の容姿へのコンプレックス、結婚への煩わしさを嫌っていたなどの理由が憶測されています。
そして、精神疾患を抱えていた母親を思い出すと、自分の身にも同じことが起こるのではと恐れるとともに、女性への恐怖心さえ植え付けられたのです。

数人の未亡人と交際をし、サラ・ダンビーという女性とは子どもももうけました。若い女性はこれから発狂するのではないかという恐れが先に立ち、いつもすでに結婚・出産した女性を好んでいたとのことです。

●ウィリアム・ターナーまとめ

王立アカデミーでのキャリアや一つの技法に満足することなく、常に新しい試みにチャレンジしていたターナー。
”光の画家”と呼ばれる鮮やかな光の描き方は、モネが「印象 日の出」を描き印象派が誕生する35年も前に描かれたものだったということは、彼が時代をいかに先取りしていたかの証明になります。

自分のコンプレックスを抱えながらも新たな世界に挑む。それは、自分の生い立ちを考えて生活の安定だけを追い求めなかったターナーだからこそ成し得た結果ではないでしょうか。

労働者階級が使うコックニー訛りを気にし、王立アカデミーでも異質な存在だった彼の作品を認めたイギリス絵画界も素晴らしいと言えるでしょう。
1984年以来、ターナーの名を取った「ターナー賞」は、50歳以下のイギリス人またはイギリス在住美術家に対して毎年贈られる賞として今も多くの人が参加しています。

コンプレックスも彼の絵と同様、物の形を正確に描くことだけ=人のうわっつらだけをみることに疑問を感じ、常に新しいチャレンジをし続けるターナーの人生に想いを馳せずにいられません。
しかし、それがターナーの人間臭さ、苦しみながらももがき続ける彼の人生だったと言えるのでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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