ジャクソン・ポロック:アクション・ペインティングとアルコールの画家

ジャクソン・ポロックはアメリカ合衆国ワイオミング州、コーディに生まれた画家です。20世紀を代表するアメリカの画家であり、ポロックの「アクション・ペインティング」は世界に大きな衝撃を与えました。その表現が絶賛される一方で、ポロックは「アメリカを代表する画家」と称されることへのプレッシャーからアルコール依存症に苦しんでいました。そんなポロックの人生とはどのようなものだったのでしょうか。

■ジャクソン・ポロックとは

ジャクソン・ポロックは1912年、アメリカ合衆国ワイオミング州に生まれました。
父は農夫で、のちに土地測量士になりアメリカ全土を移動しなくてはならなくなったため、ポロックもアリゾナやカリフォルニアなどさまざまな土地に住むことになりました。母はかつて芸術家を志したこともあり、フロイトの精神医学やストラヴィンスキー、ダダなど文芸や芸術に造詣が深い人物でした。そうした環境もあって、ポロックの芸術家としての芽は育まれたのかもしれません。

1928年にはロサンゼルスのマニュアル・アーツ・ハイスクールで抽象美術の基礎や彫刻を学び、1930年には兄のチャールズを追ってニューヨークに渡り、アート・スチューデンツ・リーグではトーマス・ハート・ベントンのもとで学んでいます。当時はアメリカの地方の風景画を描く「アメリカン・シーン派」が全盛期であり、ベントンもそうしたアメリカン・シーン派のひとりでした。ポロックはベントンの指導を受け、作風というよりはリズミカルなタッチやベントンの人となりを学んでいきました。

ポロックのキャリアのはじまりは、1935年から1942年にかけて公共事業促進局の連邦美術計画に参加したことです。連邦美術計画とは若手の画家たちに公共建築に壁画などの作品を設置するよう依頼したもので、マーク・ロスコやウィレム・デ・クーニングなども参加していました。
この際にポロックはメキシコ壁画運動の作家、ダビッド・アルファロ・シケイロスらの助手を務めていますが、シケイロスのスプレーガンやエアブラシなどで描くスタイルに衝撃を受けることになります。そのアグレッシブな制作スタイルは、その後のポロックのアクション・ペインティングにも影響を及ぼしていくことになります。

■「アクション・ペインティング」

1936年にはシケイロスが主催する「実験工房」で液体塗料を取り入れて制作するようになり、のちに「ポーリング」と呼ばれる塗料を注ぎかけることで線を描く手法につながっていきます。またキャンバスをスタジオの床に置いて顔料を滴らせる「ドリッピング」という手法を開発したのもこのころであり、ポロックのこうした手法は「アクション・ペインティング」の語源となっていきました。

ポロックはその後1943年にペギー・グッゲンハイムの画廊と契約を結び、画家としての大きな一歩を踏み出していきました。
またこのころ第二次世界大戦の戦火を逃れてアメリカに渡ってきていたシュルレアリストたちと交流し、かねてから尊敬していたパブロ・ピカソやジョアン・ミロの作風を見聞きしたことにより、無意識なイメージを重視するようになっていきました。

ではポロックのアクション・ペインティングの作品には、具体的にどんなものがあるのでしょうか。代表的な作品をひとつひとつ見ていきましょう。

・《No.5》 1948年 プライベートコレクション

《No.5》は1948年に製作され、現在は個人によって所蔵されています。この作品は灰色、茶色、白、黄色の塗料を使用して描かれた「鳥の巣」状の絵画です。ポロックがアクション・ペインティングを始めた初期の作品でもあり、ポーリングやドリッピングといった手法がふんだんに使われています。

この作品には面白い逸話があります。1949年にこの作品が初めて売れた際のことです。運送中に激しく損傷されてしまったらしく、運送業者は片手に絵画を、もう片手には絵画の中心から剥がれ落ちた塗料の塊を持ってポロックのもとへとやってきました。知人から「購入者は元の状態のことなんて分からない」と言われたポロックは急いで破損した絵画の上から塗料をかけ直して修復しましたが、購入者のアルフォンソ・A・オッソリオの元へ届いた時にはまだ塗料の一部が乾いておらず、修復したことはすぐにバレてしましました。

ポロックは描き直しを申し出ましたが、オッソリオはこの塗り直しによって「オリジナルに描かれていたコンセプトは健在なまま、より深みと豊かさが加わった」としてこの作品を気に入り、ポロックを「二度目のチャンスを持つ素晴らしい芸術家」と評価しました。また作品は2006年に1億4000万ドルという高値で販売されたことでも有名です。この記録は2011年まで超えられることはありませんでした。

・《One:No.31》 1950年 ニューヨーク近代美術館

《One:No.31》は1950年に製作され、現在はニューヨーク近代美術館に所蔵されています。ドリッピングという技法の特徴が最も顕著に現れた作品であり、またその大きさも最大級です。

1950年、ポロックはニューヨークのイースト・ハンプトンにある彼のスタジオで《One:No.31》、《秋のリズム :No30》、《Blue Poles》といった3つの大規模なドリッピング・スタイルの作品を制作しており、そこには写真家のハンス・ナムスが招かれていました。

ハンスがスタジオについて間もない時、ポロックが油とエナメルで覆われたキャンバスを見て「完成した」と言ったことから彼はとても落胆しました。しかしそれも束の間、ポロックは自発的に絵筆を取って黒や白や、青、茶色などの絵の具をキャンバスに向けて投げ出したことでハンスの落胆は打ち破られることになります。ポロックのアクション・ペインティングの制作現場では、床に置かれたキャンバスに向かって棒や硬くなったブラシ、その他の道具を使ってあらゆる方向から塗料を投げつけることができます。彼はキャンバスをイーゼルに乗せず床に置くことで、より絵画に近い距離で制作に没頭することができるとしてこの手法を好んでいました。

ハンスの撮影した作品制作中のポロックの写真は、彼の技術への理解を深めるとともに名声を高めることに大きく貢献しました。現在《One:No.31》を所蔵しているMoMAの研究者たちは、この作品を「近代都市の脈動する強さ、自然の原始的なリズム、さらには宇宙の無限の深さ」を象徴する絵画として高く評価しています。

■ポロックとアルコール依存症

ポロックは連邦美術計画に参加していた時から、アルコール依存症に悩まされており、時にはユング派の精神分析の治療も受けたほどでした。最近の研究では、ポロックは双極性障害や起立性調節生涯であったのではないかとも言われています。

画家として成功してからもアルコール依存症には悩まされており、その原因はアメリカを代表する画家と呼ばれるようになったプレッシャーと、新しい表現を生み出せない苦悩からであったといわれています。新しい表現を生み出す一方で、画家としての在り方やプレッシャーに悩み続けたポロック。その安らぎの場は、アルコールにしかなかったのかもしれません。

■ポロックの最期

アルコール依存症の再発や新しい作風が生み出せないプレッシャーにより、ポロックは1951年ごろから黒いエナメル一色の作品を描いたり、具象的な作品を描いたりと画風が定まらなくなります。ポロックは精神的に追い詰められ、1956年8月11日には自動車事故を起こして返らぬ人となってしまいました。
アメリカを代表する画家とされたポロックは新しい表現を生み出しながらも、その人生に苦しみ、劇的な最期をとげたのです。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧