サム・フランシス:パリ、ニューヨーク、東京を行き来した色彩の画家

サム・フランシスは1923年にカリフォルニア州サン・マテオに生まれた画家です。アンフォルメルや抽象表現主義の影響を受けた色彩豊かな作品を描くことで知られており、ニューヨーク、パリ、東京と各地にアトリエを持ち精力的に制作活動にあたりました。そんなサム・フランシスとは、どのような画家だったのでしょうか。

■サム・フランシスとは

サム・フランシスは1923年カリフォルニア州サン・マテオに生まれました。父サミュエル・オーガスタス・フランシスは数学教授、母キャサリン・ルイスは優れたピアニストでありフランス語教師でもありました。サン・マテオ高校を卒業するとカリフォルニア大学バークレー校に入学し、植物学や医学、心理学を学んでいます。

1843年になると戦闘機パイロットになるためアメリカ陸軍航空隊に入隊します。しかし1944年、試験飛行中に飛行機がアリゾナ州トウ―ソンで事故を起こし、緊急着陸。脊柱を損傷し、1年以上にわたり全身をギプスに固められ身動きが取れない入院生活を送ることになってしまいます。この際に退屈を紛らわせるために始めたのが、水彩画でした。初期の作品は風景や人物を模写したもので、シュルレアリスムの影響が色濃く見られます。

その後結核が流行し始めたため、サンフランシスコのフォート・マイリ―復員軍事病院に転院、その際に美術学校の教師であったデイヴィッド・パークに出会いました。パークはフランシスにクレーやジョアン・ミロ、ピカソといった前衛的な芸術家の作品の現物を見せており、そのイメージはフランシスに大きな影響を与えました。パークの力添えで出品したサンフランシスコ美術協会の「第66周年次展」に作品を出品、画家としてのキャリアを歩みだすことになります。

■フランスへ

フランシスは軍を除隊すると幼馴染のヴェラ・メイ・ミラーと結婚し、1948年にはカリフォルニア大学バークレー校に復学します。大学では絵画と美術史を専攻し、1950年には文学修士号を取得します。このころ二番目の妻となるミュリエル・グッドウィンと出会い、パリに移り住みました。

当時のアメリカではジャクソン・ポロックやマーク・ロスコ、バーネット・ニューマンなどアメリカの画家たちが新しい表現を生み出しており、徐々にアートシーンの中心がヨーロッパからアメリカ、それもニューヨークに移っていく時期でした。つまりフランシスは時代と逆行するような選択を取っていたのです。

フランシスは当初緑、青、赤、黄色、白といった基本色のみで作品を描いていました。1951年の《ホワイト》や1951年の《ブルー》などは当時の作風をよくあらわしており、同じ色を用いるにしても、奥行きがあるように技巧を凝らして重ねられています。その後作品はどんどんカラフルになっていいきますが、この時にフランシスの中で確立した塗り重ねることで生み出される奥行きのある表現は、生涯にわたって作品に見受けられます。

■世界旅行と日本

フランシスはその後精力的に制作活動を行い、「1955年ピッツバーグ現代絵画彫刻国際展」とサンフランシスコ美術館の「20世紀美術」展に出品、「タイム」に「今パリで一番旬のアメリカ人作家」と紹介され、才能ある画家として認められていきました。
1957年になるとフランシスはパリを離れ、世界旅行に出かけます。ニューヨーク、メキシコ、カリフォルニアを訪れ、特に日本には長期滞在するほどでした。

パリに戻るとロンドンのジャンペル・フィス画廊で「サム・フランシス:油彩と水彩」を開催、パリのジャン・フルニエ画廊やベルンのコルンフェルト&クリプシュタイン画廊でも展覧会を行っています。

その後9月には勅使河原蒼風の草月流三田教場の壁画を制作するため来日、東横百貨店や大阪の近鉄百貨店でも展覧会を開きます。その際に評論家の東野芳明とその妻出光孝子、そして孝子の妹である真子に出会います。フランシスは大江健三郎や大岡信、小山富士夫といった日本の文化人とも交流を結び、日本文化に造詣を深めていきました。また出光興産の社主であり、東洋古美術のコレクターとしても有名であった出光佐三は、フランシスの作品を多数収集しており、日本の出光美術館にはフランシスの作品が多数所蔵されています。

■にじみの表現

後に真子とは結婚することになり、フランシスは日本と強い縁を結ぶことになります。加えて日本からの影響は、作品にも表れるようになりました。

1950年代の作品を見てみると、「絵の具を塗り重ねていく」ことに重きを置かれていることがわかります。どちらかというと単色で構成されがちで、絵の具を塗り重ねていくことで奥行きのある空間が表現される作品が主でした。
しかしその後は余白を活かし、絵の具のにじみを活かす表現が見られるようになります。これは同じく余白とにじみを活かす日本美術の影響があるのではないかと考えられています。

■青と白、そして余白

またフランシスの作品を見ていると、青が多用されていることに気が付かされます。初期の作品では奥行きを重視した表現の作品を制作していたため、どの色でも制作に取り組むことができました。しかし徐々に平面上での広がりに注目するようになってくると、「広がり」に適した色を用いる必要が出てきます。そのためフランシスは青を多用するようになっていきました。
1955年の《ブルーネス》や《イン・ラブリー・フルーネス》では圧倒的に青が用いられており、どれだけフランシスが青を重要視していたか伺うことができます。1960年には画面全体に青の形態を描いた「ブルー・ボールズ」シリーズを制作、フランシスの中で青は圧倒的な存在であり続けました。
その一方で存在感を示すようになってきたもう一つの色が、白です。「ブルー・ボールズ」シリーズでは青のユニークな形が描かれていますが、それ以上に画面にひろがっているのが白、すなわち余白の存在です。白は徐々に効果的に用いられるようになり、余白をどうとらえるかがテーマとなっている作品も多数制作されています。

■カラフルな作品のその奥に

サム・フランシスはその後も精力的に作品制作を続けましたが、癌を発症し1993年には車いす生活を強いられることになります。合併症も併発し、晩年は病気療養のために時間を費やすことになりますが、その制作意欲はとどまることを知りませんでした。1993年の秋には右腕を骨折していたのにもかかわらず、1994年にはサンタモニカのスタジオで150点もの小さなキャンバス作品を制作していたほどです。しかし1995年11月4日、癌による合併症が悪化し71歳でサンタモニカのセント・ジョーンズ病院で亡くなりました。

サム・フランシスは最初から画家を志した人物ではありません。飛行機事故という不幸にあって、辛い入院生活で気を紛らわせるためにはじめた水彩画でしたが、キャンバスの中に奥行きのある世界観を作り上げるタッチはフランシスに画家としての才能が備わっていたことを感じさせます。またパリや日本、ニューヨークなど世界を旅した際に見聞きした経験は、抽象表現主義や余白の表現、にじみの表現といったフランシス特有の表現につながっていきました。

フランシスの作品はどの作品もカラフルなものが多く、その色彩の美しさには誰もが目を奪われます。しかしその向こう側には奥行きを表現することへの挑戦や、世界各地を旅した記憶が描き留められているのです。

samfrancis.com

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧