ジャン・デュビュッフェ:アール・ブリュットの開拓者

ジャン・デュビュッフェは1985年フランス、ル・アーブルに生まれた20世紀を代表する画家です。アンフォルメルの画家としてすばらしい作品を残したことはさることながら、アール・ブリュットといって西洋の伝統的な訓練を受けていない人や精神障害者が生み出した作品に光を当てたことでも有名です。そんなデュビュッフェの人生とはどのようなものだったのでしょうか。

■ジャン・デュビュッフェとは

ジャン=フィリップ=アルチュール・デュビュッフェはフランス、ル・アーブルに生まれた画家です。両親の家業はワインの卸売りで、ル・アーブル美術学校の夜間課程に学ぶなど絵画への興味を見せてはいたものの、父から法律を学ぶか父の会社で会計を学ぶかどちらかにしなくてはならないと突き付けられ、法律を学ぶためにパリに出ることになります。

パリに出ると学生街カルチェラタンに部屋を借り、アカデミー・ジュリアンという画塾に通うものの伝統的な指導が合わず、どのように絵画を学ぶべきか迷う時期が続きました。またこのころ画家であるアンドレ・マッソンに出会い、民俗学者のミシェル・レリス、作家のマルセル・ジュアンド―などと交流を結ぶようになります。

1927年にはポートレット・ブレと結婚、1929年には娘が生まれます。その後は実家からは何の援助もなく自らワイン会社を設立しました。事業が軌道に乗ると、ふたたび絵を描きたいという思いが沸き起こり、余暇で絵を描くようになります。「ただ描きたい」という思いは大きくなるばかりで、1942年には経営権を譲り、画業にいそしむようになります。デュビュッフェの画家としてのデビューはルネ・ドルーアンの画廊で行われた「ジャン・デュビュッフェの絵画とデッサン」展で、作品は数日で完売してしまうほどでした。

■画家としてのキャリア

こうしてデュビュッフェはワイン会社の経営者から画家としてのキャリアを踏み出したわけですが、どのような作品を描いていたのでしょうか。

1946年ルネ・ドルーアン画廊で「ミュロボリュス・マダカム商会、厚塗り」展という奇妙な題名の個展を開きます。マダカムとは道路のアスファルト舗装の基礎を築いた人物で、この展覧会に展示された作品には砂やアスファルト、ガラスなどが混入されていました。厚塗りの画面とまるで落書きのような作品は当時の人々を困惑させ、デュビュッフェが伝統的な絵画から新しい絵画を目指そうとするひとつの契機でもありました。

1959年にはパリ市立近代美術館の館長からフランス絵画展への招待を受けたり、1960年にはパリ装飾美術館で「デュビュッフェ回顧展」が開催されたりと、フランス国内外でデュビュッフェの名前は大きく広まっていきました。

■アール・ブリュット

こうして画家としてフランス国内外にその名が知られるようになったデュビュッフェですが、特にその名を知られるようになったのは「アール・ブリュット」を導入したことにあるかもしれません。

1923年デュビュッフェはハイデルベルグ大学付属病院に勤務する精神科医であるプリンツホルンの「精神疾患患者の芸術性」を手に入れます。この書籍はプリンツホルンが150枚以上にわたる図版と共に精神障害者の作品を紹介した作品で、ヨーロッパの芸術界に大きな衝撃を与えました。この本の内容に興味を抱いたデュビュッフェはフランスやスイスの精神科病院を訪れ、精神障害者の創り出した作品を探し回るようになります。そうしてデュビュッフェが見つけ出したアーティストの中には40年間以上スイスの精神科病院に入院しながら独自の絵画を描き続けてきたアロイーズ・コルバスや指を鉛筆代わりに描くルイ・ステールなどがいました。

こうした精神障害患者の作品に直に接することで、デュビュッフェは精神の衝動がむき出しに表現されていることに強い芸術性を感じるようになり、これらを「生の芸術」、アール・ブリュットと呼ぶようになりました。1947年にはドルーアンから画廊の地下の提供を受けて、「生の芸術センター」を開館、アール・ブリュット協会を設立し、100人の作者による1200点のコレクションを持つまでに至りました。その後協会は資金不足で解散してしまいますが、1967年にパリ装飾美術館でデュビュッフェのコレクションが大々的に展示され、1976年にはスイスのローザンヌ市長と契約を交わし、アール・ブリュットの芸術を展示する美術館であるアール・ブリュット・コレクションを開館するまでに至りました。

■現代にいたるまでのアウトサイダー・アート

このようにデュビュッフェを契機として大きく認知されるようになったアール・ブリュットですが、現代までにはどのように受け止められるようになったのでしょうか。

まず1972年イギリスの美術評論家ロジャー・カーディナルが著書「アウトサイダー・アート」の中で、正規の美術教育を受けていない者、すなわち「アウトサイダー」について言及しています。アウトサイダーの中には精神障害者以外にもプリミティブアートや民俗芸術、ホームレスの作品なども含まれるようになり、精神障害者だけではなくより広くアートを認知するための概念として「アウトサイダー・アート」という言葉が紹介されました。1989年にはアウトサイダー・アートの専門誌である「Raw Vision」が創刊し、アウトサイダー・アートを大きく広めていきました。

特にアウトサイダー・アートを広く紹介するきっかけになったのは、「パラレル・ヴィジョン―20世紀美術のアウトサイダー・アート」です。この展覧会はロサンゼルス・カウンティ美術館で開催された展覧会で、強迫的幻視者の作品を主に展示していました。当初はアボリジニやシャーマンによる作品も展示する予定でしたがまとまりがつかなくなり、精神障害者や強迫的幻視者の作品に焦点が置かれるようになりました。こうした意味では「パラレル・ヴィジョン」展はアウトサイダー・アートというよりもデュビュッフェが提唱する「アール・ブリュット」に近しい展覧会となりました。

この展覧会はロサンゼルスのロサンゼルス・カウンティ美術館をスタートし、マドリードのレイナ・ソフィア国立美術館、バーゼルのバーゼル・クンストハレ、東京の世田谷美術館を巡回し、アウトサイダー・アート、そしてアール・ブリュットを世界的に広めていくきっかけとなりました。

■「生の芸術」を見つけた人

ジャン・デュビュッフェは画家としてのキャリアは遅く、41歳の時に経営権を譲り、ようやく画業に専念できるようになりました。デュビュッフェの初めての展覧会はコンクリートやガラスを素材として扱うこれまで人々が見聞きしてきたような絵画とは大きく離れたものであり、世間を驚かせます。美術学校で学んだわけでもなく、伝統的な作品を描くわけでもない、そんなデュビュッフェの画家としてのキャリアを見てみると、なぜアール・ブリュットに興味を持つようになったのか、その糸口が見えてくるようです。

アール・ブリュットはもともとデュビュッフェがプリンツホルンの著書をきっかけとしてフランスやスイスをめぐり、精神障害者の作品を目にし、広く紹介したことから始まったものですが、その後「正規の美術教育を受けていない人による作品」という広い意味でのアウトサイダー・アートが認知されるようになり、アートのジャンルをより大きく広める契機となりました。

アートというと「美大で正規の美術教育を受けた人が描くもの」「才能のあるスペシャリストが生み出すもの」というイメージがあるかもしれませんが、デュビュッフェはそんなイメージを打ち壊す大きなきっかけをアートの世界に送り込んだのです。そうした目で現代のアートを見てみると、興味深い世界が見えてくるかもしれません。

参考:Wikipedia
ジャン・デュビュッフェ
アウトサイダー・アート
パラレル・ヴィジョン

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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