カルニヴァーレ・ディ・ヴェネツィア:匿名者の祭典

海の上の街ヴェネツィアで、毎年1月下旬から2月上旬にかけて開催される祭典、カルニヴァーレ・ディ・ヴェネツィア。豪華なドレスと独特の仮面に身を包む人々が美しい街並みの中を練り歩く姿は、実にユニークで幻想的だ。現代では祭典の期間中のみ着用されるヴェネツィアン・マスクと呼ばれる仮面は、かつてヴェネツィアの人々の生活には必要不可欠なものであった。身分を隠し、匿名者として行動するために使用されて仮面は、現代のカーニヴァルでも国籍や性別を隠し、平等に祭典を楽しむための道具として使用されている。

海に浮かぶ街の仮面の祭典

ヴェネツィアのカーニヴァル(カルニヴァーレ・ディ・ヴェネツィア)は、イタリア北部の水の都ヴェネツィアで年に一度、1月末から2月中旬までの2週間に渡り開催行われる祭典で、1162年にヴェネツィア共和国がアクレイアとの戦に勝利したことを祝ったのが始まりと言われています。人々が豪華なドレスを身に纏い、美しい街中を練り歩く姿を見ると、まるで中世にタイムスリップしたような気持ちになるでしょう。この祭典は18世紀に暴動や犯罪行為をエスカレートさせるとの懸念を抱いたナポレオンによって禁止されてしまいますが、1979年に歴史と文化の保存を目的に、イタリア政府により再開されたもので、今では水の都ヴェネツィアにおける一番の観光イベントとして知られています。

現在は衣装のレンタル等やフェイスペイント等も行われており、観光者でも飛び入りで祭典に参加することができます。美しい衣装に身を包んで美しい街並みを散策したり、地元の人々に混じって写真のモデルになりポーズをとったり等、普段とはまた少し違ったヴェネツィアの雰囲気を楽しむことが出来るでしょう。また、祭典の中心地となるサン・マルコ広場ではその年の一番美しい仮面を決めるコンテスト等のイベントが開催され、必見です。

仮面:ヴェネツィアの人々のもう一つの顔

ヴェネツィアのカーニヴァルをより特徴的にしているのは、祭典に参加する人が身につけている仮面の存在です。仮面を身につけることで、人々は自分のアイデンティティを消し去り、「匿名者」として祭典に参加することが出来るのです。

かつて仮面は祭典の時期のみに限らず、年中仮面を身に付けることが推奨されていた時代もありました。貿易の中心地として栄え、商人や貴族、外国人、コルティジャーナと呼ばれる高級娼婦など、様々な人が入り混じるヴェネツィアにとって、本来の自分を隠すことが出来るもう一つの顔はとても大切なものだったのです。しかし、仮面はその匿名性の高さから、暴動や犯罪行為を助長するとして常にヴェネツィア共和国政府の悩みの種となっていたのも事実でした。しかし政府は仮面着用を禁止する度に例外措置も用意し、常に人々が仮面を使用することができる法の隙間を作ることで、国民の生活に深く根付いていた仮面文化を守っていたのです。この事からも、ヴェネツィア共和国にとって仮面がどれだけ重要な意味を持っていたかが分かるでしょう。

これはヴェネツィア人だけでなく、ヴェネツィアを訪れる外国人にとっても同様でした。フランスやドイツなどの他国では仮面の着用は教会により禁止されていましたが、ヴェネツィア国内では司祭であっても、仮面無しに信者を訪ねることは出来なかったのです。ヴェネツィア共和国に一歩足を踏み入れると、非日常的なものも日常的なものとして錯覚し、受け入れてしまう。美しい海の上の共和国には、そんな不思議な力がありました。

物語によって作られた共和国

ヴェネツィア共和国の誕生は、度重なる諸民族の侵略から逃げてきたヴェネト地方の人々が、アドリア海の潟に安住の地を求めたのがその始まりとされており、6世紀頃まで遡ります。当時かなり高い教養を持っていたとされるヴェネトの人々にとって、おおよそ人が住めるとは考えられないような、無限の湿地帯への逃避は屈辱的であったに違いありません。自らを奮い立たせ民族のプライドを保つため、これを神の啓示によるものと信じ、現在の海上都市の土台を作り上げたのです。このように、ヴェネツィアは建国当時から「神の啓示により作られた国である」という物語性をはらんでいました。

ヴェネツィアで現在でも行われている「海との結婚」と呼ばれる儀式は、ヴェネツィア建国における物語性をよりドラマティックに彩ります。共和国の象徴である総督(ドージェ)がブチントーロと呼ばれるガレー船から海の中へ金の指輪を投げ入れ、「海よ、我は汝と結婚する。永遠に汝が我とあるように」と宣言することがこの儀式の流れ。海の上での生活を余儀なくされた人々が、ヴェネツィア建国の事実の中に物語性を求めていたことをよく表しています。幻想的な海上都市において、非日常を日常とする心情が人々の中に芽生えたのは、必然だったのかもしれません。

物語によって作られた共和国は、「最も晴朗な共和国(セレニッシマ・レプブリカ)」と自らを称し、他の都市にはない地理的な特徴を最大限に利用し、よりユニークな大国へと変貌したのです。ヨーロッパ最大の貿易の玄関口として機能していたヴェネツィア共和国には、当然各国からの重要客人も多く訪れます。多くの著名人がヴェネツィアの美しさに圧倒され、賞賛してきました。ゲーテは自身の著作「イタリア紀行」の中で、こう述べています。

「ヴェネツィアが他のどの都市とも異なった比類ない都であるように、ヴェネツィア人は新しい種類の人間にならざるを得なかった」

引用:『Italienische Reise』Johann Wolfgang von Goethe(1816年初版発行)

共和国誕生の瞬間から、ヴェネツィアの人々はこの海の上の街を舞台に、ヴェネツィア人という役を演じることを余儀なくされたのかもしれません。そんなヴェネツィアで、人々が自分のもう一つの顔である仮面を大切なものとして扱ってきたことは、自然な事だと言えるでしょう。

ヴェネツィアン・マスクの種類

ヴェネツィアではかつて衣服の一部として日常的に使用されていた仮面。現代のカーニヴァルでは伝統的な仮面に加え、よりバラエティーに富んだ仮面も登場しています。その中から、伝統的なヴェネツィアの仮面(ヴェネツィアン・マスク)についてご紹介します。

国民の仮面「バウタ」

ヴェネツィア共和国で、かつて国民の仮面とよばれ人気を博したのが、バウタと呼ばれる半仮面です。白塗りの仮面は下顎の部分が開いており、着用したまま話をしたり食事をしたりすることが可能でした。トリコロールと呼ばれる三角帽子とセットになった質素なこの仮面は、人々の身分を隠すのにうってつけで、性別や身分関係なく誰でも使用できたため人気を博したと言われています。一方、カーニヴァルの時期以外の仮面の着用は貴族にのみ許されていたため、バウタを身に付けることで、逆に自分は高貴な人物であると宣言しているのと同じ、という逆転現象も生じました。それでもカーニヴァルの時期には性別・身分問わず多くの人々が好んでこの仮面をつけ、自分ではない何者かになって祭典を楽しんだのです。

沈黙の仮面「モレッタ」

男性の仮面として作られ、のちに性別関係なく使用されたバウタとは異なり、女性向けに作られたのがモレッタと呼ばれる仮面。目の部分以外には穴が開いていない顔全体を隠す仮面で、着用時に仮面の裏側のボタン状の突起物を口で咥えるため、この仮面を装着している間は喋ることができなくなります。もともとは女貴族が召使いを街に出す際、主人の秘密事を漏らさないように考案されたと言われていますが、喋らないことで女性の内面の美しさを引き出すことができる、という理由から好まれたとも言われています。18世紀ごろには廃れてしまったため、現代のカーニヴァルでは突起物で支えるものではなく紐を使ったものを見ることができます。ヴェネツィアの歴史を語る上で重要な仮面と言えるでしょう。

黒い病の象徴「ペストの医者の仮面」

ヴェネツィアのカーニヴァルで見かける仮面の中でも一際不気味な雰囲気を醸し出すのが、ペストの医者の仮面です。当時のヨーロッパで猛威をふるったペスト(黒死病)の診察に訪れる医者を模したもので、目元には患者と直接目を合わせない用にするためメガネをかけ、嘴のように伸びた口元には菌を洗浄するために薬草を詰め込んでいたと言われています。全身を衣服と手袋で包み込み、杖を持ったその姿からは、医師というよりむしろ死神を連想してしまいます。

優雅な装飾の「コロンビーナ」

現代のカーニヴァルでよく見かけるのが、コロンビーナと呼ばれる金色の縁取りや宝石、羽毛などで装飾された豪華な半仮面です。コロンビーナという名前はコンメディア・デッラルテと呼ばれる仮面を使った即興演劇に登場するキャラクターに由来しており、彼女の美しい顔立ちを完全に隠してしまわないように、と目元だけを隠す形が考案されました。ほかの仮面に比べると装着も容易であり種類も豊富なため、観光客にも人気の仮面です。

仮装の花形「ボルト」

最も人気があり、豪華な仮装に力を入れている人が選ぶことが多いのが「ボルト」です。こちらはお土産などでも大変人気の全仮面であり、「亡霊」の異名と共に本来真っ白の仮面として作られましたが、現在は華やかな装飾が施されドレスに合わせて同じデザインのマスクを作る仮装者も多くなっています。

人々を魅了し続ける匿名者の祭典

かつての人々が自分の身分を隠すために仮面を装着して楽しんだヴェネツィアのカーニヴァル。観光者向けイベントとしての側面が強くなった現代でも、その根本的な趣旨は変わることがありません。ヴェネツィアに訪れた人々は誰でも、その海に浮かぶ街の美しさに驚きます。しかしそれは、ヴェネツィアという国を客観的に見たときの、外部の人間、つまり観客としての感動に他なりません。ヴェネツィアのカーニヴァルはそんな観光客でさえも、仮面さえあれば役者の1人として参加することができる、唯一の場といっても過言ではないでしょう。

ヴェネツィアのカーニヴァルを訪れる際には、ぜひ仮面をつけた「匿名者」として、ヴェネツィアという舞台の一部になって楽しんでみるのはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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