ティツィアーノ:画家の王者とヴェネツィア派

15世紀後半、ダ・ヴィンチやラファエロ、ミケランジェロによって大成されたフィレンツェ派美術に対抗するようにヴェネツィア派という流派が生まれた。中でも、その繁栄に大きく寄与したと言われるのがヴェネツィア派の最大な画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオである。ティツィアーノは自由奔放な筆使いと恵まれた色彩感覚によって数々の名作を生み出し、盛期ルネサンスにおいて大きな功績を残しただけでなく、後世の西洋絵画にも多大な影響を与えている。

セレニッシマ:晴朗なる共和国の発展とヴェネツィア派の誕生

アドリア海の潟(ラグーナ)の上に築かれた水の都、ヴェネツィア。その地理的な特異性と美しさから、「水の都」、「アドリア海の女王」などと呼ばれ、北イタリアでも人気の観光地です。迷路のように複雑に入り組んだ路地には自動車は入ることができず、現代でも市民の移動手段は徒歩か船に限られています。水路を行き交うヴァポレット(水上バス)やゴンドラからは、かつて貿易によって栄華を極めたヴェネツィア共和国の面影を、今でも感じ取ることができます。

セレニッシマ・レプブリカ(晴朗なる共和国)と呼ばれたヴェネツィア共和国は7世紀後半から18世紀までの1000年という長きにわたり存在した海洋国家で、歴史上でももっとも長く続いた共和国と言われています。その立地から他国への抜群のアクセスを持っていたヴェネツィアが、海上貿易の中心地として繁栄したのは言うまでもありませんが、15世紀初頭にはイタリア本土にまでその領土を広げ、次第に国家としての影響力を強めていきました。貿易により異国との交流が盛んだったヴェネツィアの文化は、当時イタリアで力を誇ったミラノやローマ、フィレンツェなどの都市国家のそれとは一線を画していました。特に絵画の分野においては、その地理的特徴から独自の発展を遂げ、やがてダ・ヴィンチやラファエロ、ミケランジェロに代表されるフィレンツェ派と肩を並べる、ヴェネツィア派という流派を確立します。

色彩と感覚のヴェネツィア派

ヴェネツィア派の特徴として第一に挙げられるのは、「柔らかくも鮮やかな色彩表現」です。当時一般的であったテンペラを用いた技法を捨て、油彩技法をヴェネツィアにもたらしたのは、ヴェネツィア派の祖と呼ばれるジョヴァンニ・ベリーニでした。乾きが早く、輪郭をぼかしたり重ねて塗ったりには向かないというのが従来のテンペラ技法のデメリットでしたが、油彩技法を用いることで光の明暗を色彩で表現することが可能になり、人物と背景との境界線は柔らかく描き、より画面全体の調和を重視する、といったヴェネツィア派絵画の特徴が生まれたのです。

また、ヴェネツィア派絵画に頻繁に見られる鮮やかな色使いは、当時存在していたあらゆる画材へのアクセス権という、ヴェネツィアの貿易国家としての優位性が関係しています。顔料として用いられる多くの鉱物は、中近東からまずヴェネツィアに入り加工されていました。ヴェネツィア派の画家達は、同時代にイタリアの他の都市で活躍していた画家達に比べ、より最新の、質の良い画材を手に入れることができたのです。

もう一つヴェネツィア派の特徴として特筆すべきなのは、「感覚的な美の追求」と言えるでしょう。フィレンツェ派の画家達が何よりも素描(デッサン)の修練に重きを置き、リアリズムへ論理的なアプローチをしていたのに比べ、ヴェネツィア派の画家達は前述の通り、色彩や光の表現によって生命力溢れる絵画を製作し、感覚的なリアリズムに基本を置いていました。これには油彩技法の導入により重ね塗りが可能になり、下描きそのものが重要視されていなかったという事もありますが、ヴェネツィアの気候も大きな要因であると考えられます。四方を海で囲まれたヴェネツィアの大気は湿気が多く、濃い霧が街中を覆ってしまうことが少なくありません。陰鬱な霧は色の彩度を落とし、様々なものの境界線を曖昧にしてしまいます。そんなヴェネツィア特有の気候と、市内を駆け巡る水路に反射する光の美しい対比が、ヴェネツィア派の画家達をより感覚的な美の追求へと向かわせる要因となったのです。

(Public Domain /‘The assumption’ by Tiziano Vecellio. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ヴェネツィア派最大の画家、ティツィアーノの出現

フィレンツェ派と対抗するように独自の発展を遂げたヴェネツィア派絵画を語る上で、ヴェネツィア派最大の巨匠と呼ばれるティツィアーノ・ヴェチェッリオの存在は欠かせません。ティツィアーノはその圧倒的な色彩感覚と画力によって約90年という長い生涯のほぼ全てにおいてヴェネツィア派を牽引し続けただけでなく、特出した外交センスによって多くのパトロンを獲得し、ヴェネツィア派絵画の素晴らしさを世に広めたという点で功績を残しました。

約10歳でジョヴァンニ・ベリーニの工房に弟子入りしたティツィアーノは、兄弟子であるジョルジョーネと共にお互いを高め合いながら修行に励み、30代の頃に独立。ヴェネツィアのフラーリ聖堂の祭壇画「聖母被昇天」と呼ばれる大作は、独立後まもなく製作されました。

聖母の魂が天使達に見守られながら天に召されていく様子を描いたこの作品では、画面が大きく三分割されています。上方にマリアを迎える父なる神、中央には両手を広げ喜びの表情を浮かべる聖母マリアを配置し、下方にはその様子を緊張しながら見守る使徒達が描かれています。ドラマティックな色使いはまるでこの場面が目の前で起こっているかと錯覚するような効果を生み出し、礼拝者へ奇跡を追体験させたに違いありません。アーチを描く画面上部と方形の下部は、聖母と、同じく赤い衣を纏った使徒二人を頂点として画面中央に三角形を配置するという高度なテクニックにより見事に調和しています。

この見事な作品によりティツィアーノは自身のヴェネツィア派の指導者としての地位を不動のものとしただけでなく、ラファエロやミケランジェロなど同時代のルネサンスの巨匠に匹敵する名声を手に入れました。溶け合うような柔らかな色の表現は、その後のバロック時代の画家たちにも大きな影響を残しています。

(Public Domain /‘Equestrian Portrait of Charles V’ by Tiziano Vecellio. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ティツィアーノの後世とミケランジェロ

1530年代には、当時絶大な力を誇っていた神聖ローマ帝国皇帝のカール五世をパトロンとして獲得します。カール五世からの依頼により製作された作品の中には、当時イタリアでは珍しかった全身像の肖像画がありました。馬にまたがるカール五世の姿には、あたかも皇帝にへつらったような誇張されたヒロイズムは見られず、むしろ厳格な表情は人間味を帯びていますが、その控えめな表現から人気を博しました。この作品により、全身像の肖像画はイタリア貴族の間に新たな需要を生み出し、人気の構図となりました。このことからも、すでにティツィアーノがルネサンス時代において莫大な影響力を持っていたことは明らかでしょう。この肖像画の報酬として、ティツィアーノはカール五世から宮廷伯爵と黄金伯軍の騎士の称号を与えられ、さらに社会的地位を高めていきました。

また、1550年後半にはカール五世の息子で後にスペイン皇帝となるフェリペ二世との関係を深めていきます。2人の交流はその後ティツィアーノが死没する1576年まで続きましたが、ティツィアーノはここでも自身の画家としての地位を最大限に利用し、実際に宮廷に身を置かずに、定期的に作品を配送する、という条件のもと社会的・経済的な特権を手に入れています。スペイン王宮のために制作された古代神話をモチーフとした作品たちは「ポエジア」と呼ばれていますが、ティツィアーノはこれらの作品において、エロティシズムの中に詩的な表現を与えることにより、パトロンを満足させると同時に自身の知的な体面を保つことに成功しました。

(Public Domain /‘Danae’ by Tiziano Vecellio. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1544年ごろに製作された「ダナエ」は、「ポエジア」シリーズの一作目として製作されたものです。ギリシア神話に登場するダナエという王女をモチーフに、柔らかで温かみのある色合いで描かれており、空気の動きまで伝わってくるような表現が魅力的な作品です。この作品で、ティツィアーノは当時知識人の中で話題となる絵画と彫刻の優劣比較論争(=パラゴーネ)に挑戦したと考えられています。あらゆる角度から観察が出来るため、よりリアルな表現が可能であった彫刻に対し、ヴェネツィア派特有の暖かくて柔らかい表現によって、冷たく固い彫刻に対しての絵画の優位性を示したのです。

しかし、当時彫刻の分野で圧倒的な評価を得ていたミケランジェロは、「ダナエ」の色彩表現の素晴らしさについて賞賛しつつも、デッサン力が欠けており、良い作品を作ろうという志が見えない、と辛辣なコメントを残したと伝えられています。例えば、ダナエの左脚は明らかに不自然であり、物事の形を完璧にデッサンする事でリアリティを追求していたフィレンツェ派のミケランジェロにとっては、この絵の素晴らしさを台無しにする重大な欠点と映ったのでしょう。

(Public Domain /‘Saint Jerome penitent’ by Tiziano Vecellio. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ティツィアーノの晩年

ティツィアーノは長寿であったが故に、長い画家人生の中で画風が大きく変化していったことでも知られています。晩年にフェリペ二世のために描かれた「聖ヒエロニムス」では、より力強く自由な筆さばきによって描かれ、一見すると赤や黄の絵具が大胆に塗りたくってあるだけに見える背景は、絵を全体的に捉えることで木の葉や草の茂みへと姿を変えます。人生最後の時を迎えたティツィアーノにとって、大胆な色彩表現は自らの強い感情を表す手段であったのでしょう。

(Public Domain /‘The Flaying of Marsyas’ by Tiziano Vecellio. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

同じく晩年の作品に、アポロンとの演奏勝負に負け、その傲慢さにより皮剥ぎの刑に処されたマルシュアスをテーマにした「マルシュアスの皮剥ぎ」を製作していますが、タッチはより荒々しくなり、狂気をはらんでいます。この作品でもティツィアーノの官能的な色彩表現は健在であり、生きたまま皮をはがれるマルシュアスという悲惨なテーマをより生々しく描いているのです。

(Public Domain /‘Pieta’ by Tiziano Vecellio. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ティツィアーノ最期の作品と言われる「ピエタ」にも、彼の晩年特有の荒々しいタッチを見ることが出来ます。キリストの死の瞬間の情景をテーマとした「ピエタ」は、ルネサンス期の多くの画家によってテーマとして取り上げられてきました。1976年の彼の死により未完となったこの作品では、見事に表現された黄金色の半円ドームとは対照的に、描かれた人物の輪郭はぼやけ、半ば背景と同化するように描かれています。これにより、ティツィアーノは絵画が内面的に持つ宗教的感情を表現しただけでなく、ヴェネツィア派絵画の集大成としてのメッセージを発信することに成功したのです。

後世への影響

色彩の魔術師と呼ばれるウジェーヌ・ドラクロワ、近代美術の父と呼ばれるエドゥアール・マネ、光の画家と呼ばれるレンブラント・ファン・レインなど、数多くの画家たちがティツィアーノの作品を賞賛し、影響を受けています。同時代に活躍したダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロと比較され続けたティツィアーノが、イタリア国内だけでなく他国の芸術家をも魅了したのは、彼が生前に他国の貴族からも高い評価を受け、ヨーロッパ各国のパトロンに恵まれたからでしょう。

ドイツの文豪ゲーテも、「イタリア紀行」の中でヴェネツィア派画家のことを「他国の人々よりもすべてのものを明瞭かつ朗らかに捉えている」と表現し、その中でもティツィアーノをその頂点に君臨する画家として賞賛しました。ヴェネツィア共和国建国の歴史や国を取り巻く環境によって生み出された独特な絵画表現は、ティツィアーノの才能と活躍により国境や時代を超えて広められ、今もなお多くの画家に影響を与えていることは、間違いありません。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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