ジミ・ヘンドリックス:ロックンロールのルーツ

本名ジェームス・マーシャル・ヘンドリックス。ジミ・ヘンドリックスの名前で知られる世界でもっとも偉大なギタリストは、わずか4年のキャリアにもかかわらず、現代でも計り知れない影響を与え続けているのです。

不遇の少年時代

ジミはアフリカ系の黒人を父に、ネイティブ・アメリカン・チェロキー族を母に持つハーフ・ネイティブとして生まれました。ジミ自身はワシントンのシアトルで生を受けましたが両親の仲は悪く、たびたび祖母が住むネイティブ・アメリカン居留地に預けられていました。
若干、17歳でジミを産んだ母親は放蕩癖があり、幼いジミを残してたびたび家を空け、とうとうそのまま亡くなってしまいます。
祖母の家で見た居留地に閉じ込められたネイティブ・アメリカンたちの夢のない生活は、のちのジミの曲に大きな影響を与えたと言われています。
そんなジミがギターを始めたきっかけは、15歳のときに父にプレゼントされたアコースティック・ギターがきっかけでした。
庭師の仕事で細々と生活していた中、音楽に興味を持ち始めたジミのために知り合いの息子から5ドルで売ってもらったアコースティック・ギターでした。
初めてギターを与えられたジミは、水を得た魚のように弾きまくります。ブルース、カントリー、ロックンロールを始め、TV番組の主題歌や飛行機のエンジンの音、車のクラクションなど、とにかく音という音をコピーしまくったのです。

アメリカからイギリスへ

着実に力をつけていったジミでしたが、家が貧しかったこともあり素行の方はあまりいいとは言えませんでした。ある時、窃盗の罪で捕まり実刑を受けたジミは、収監を免れるため軍隊に志願し2年を空挺部隊で過ごすこととなります。
軍隊ではのちにバンド・オブ・ジプシーズで一緒に組むことになるベースのビリー・コックスと出会っています。
その後、本格的に音楽活動に打ち込むことになるわけですが、当初は有名ミュージシャンの裏方、要はバックメンバーとしての仕事がほとんどでした。アイズレー・ブラザースやリトル・リチャーズといったビッグネームと共に全米をツアーしているうちに、アニマルズのベース、チャス・チャンドラーの目に止まります。
チャスは、ジミ自身のバンドの演奏を聞いた時、あまりの分厚いギター・サウンドに複数のギタリストが後ろで弾いているのではないかと疑ったと言われています。ジミのプレイを一発で気に入ったチャスはその場で説得しイギリスで売り出すことを了承させます。

戦慄のデビュー

イギリスへ渡ったジミが最初に行ったことはオーディションです。チャスにスカウトされたのはジミ1人だったため、バンド・メンバーを揃える必要があったのです。
結果、ベースにノエル・レディング、ドラムにミッチ・ミッチェルを加えここにザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスが誕生しました。
ちなみに、本名のジェームスからジミへとクレジットを変えたのもエクスペリエンスからです。
デビュー・シングル「Hey Joe」はいきなり全英4位のスマッシュヒットを記録、ジミは一夜にしてイギリス音楽界にその名を知られることになります。
当時、世界の音楽シーンの中心といわれたイギリスには、多くのミュージシャンが活動していました。ジミの斬新で衝撃的なプレイは一般のリスナーはもとより、そういった一流ミュージシャンにも大きな衝撃を与えたのです。
ジミが出演するクラブには、彼のプレイを見るために夜毎ジェフ・ベックやビートルズ、ローリング・ストーンズが来店したと言われています。

本国アメリカでの成功と苦悩

イギリスで成功を収めたものの本国アメリカでの知名度はそれほどではありませんでした。ジミの名前がアメリカ中に知れ渡るのは、世界初の野外ロックフェスティバル、モンタレー・ポップ・フェスティバルに出場したことがきっかけでした。
当初、ジミの名前はプレイリストになかったのですが、ビートルズのポール・マッカートニーの推薦により出場が決定します。
このライブで、ジミはステージの上でギターを破壊し火をつけるといった過激なパフォーマンスで注目を浴びることになるのです。
一躍トップ・ミュージシャンの仲間入りを果たし、アメリカでのレコード・セールスも順調に伸びていったものの、大規模なツアーによる精神的プレッシャーと肉体的疲労はジミとエクスペリエンスを次第に追い込んでいきます。
互いの意見のすれ違いから、とうとうベースのノエルが脱退、代わりにビリー・コックスを加えジプシー・サンズ&レインボウとして活動を再開することになるのです。
パーカッションやサイドギターを入れたことで音に厚みを増したバンドは1969年、伝説の野外フェイスティバル、ウッドストックにトリとして出場します。
ジミはいきなりファズの利いた大音量でアメリカ国家を演奏しますが、激しいアーミングやフィードバック奏法を駆使した演奏はオーディエンスの度肝を抜きました。
一説にはベトナム戦争における爆撃シーンを再現したとも言われるこの演奏は後世まで語り継がれる名演となったのです。
全てのプレイが斬新で衝撃的だったジミは、黒人であるにもかかわらず白人たちのヒーローとして祭り上げられました。そのことによってジミは商業的な成功を手にしたわけですが、同時に同胞である黒人からは強いバッシングを受けてしまいます。
そんな中、結成されたのがバンド・オブ・ジプシーズです。
バンド・オブ・ジプシーズは、それまでずっと活動をともにしてきたミッチ・ミッチェルの代わりにバディ・マイルスを入れ、メンバー全員黒人というラインナップで結成されました。
しかし、このバンドはあくまで白人相手に商売をしたいマネジメント側と折り合いがつかず、メンバー間のいざこざも絶えなかったため1年も保たずに解散することになるのです。

不慮の事故

バンド・オブ・ジプシーズ解散後、再びドラムにミッチ・ミッチェルを加え、ベースのビリーとともにアメリカ、ヨーロッパなど積極的にツアーを消化していきます。
しかし、ドラッグの影響からたびたび体調を崩しヨーロッパ・ツアーは半ばで中止することになります。そして1970年、ロンドンのホテルに滞在中、睡眠中に吐瀉物を喉につまらせたことによる窒息死で27歳の短い生涯を終えることになるのです。

ジミ・ヘンドリックスのおすすめアルバム

ジミが生前にリリースされたアルバムは、たった5枚しかありません。当時は現在のようにワールドワイドで発売されることも少なかったため、同じタイトルでイギリス盤とアメリカ盤で収録曲が違うといったこともありましたが、タイトル的に見ればわずか5枚しかないのです。
ロックを志す者、ジミに興味を持つ者なら全てのアルバムを聴いても無駄ではありませんが、とりあえずジミがどんなギタリストなのかを知りたいという人には、1968年に発売された「Smash Hits」をおすすめします。このアルバムは、いわゆるコンピレーションアルバムとして制作されており、それまで発売されたシングル曲を中心に収録されています。
ジミの代表曲として多くのプレイヤーがカバーしている「Purple Haze」やセット・リストの中心的なナンバー「Hey Joe」といった名曲一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。とくに後のハード・ロック、ヘヴィメタルに大きな影響を与えたと言われる「Purple Haze」のリフは一聴の価値があります。
また、エクスペリエンスとして最後のアルバムとなった「Electric Ladyland」には、ジミが生涯ライブで演奏していた「Voodoo Child」やボブ・ディランの「A Along the Watchtower」のカバー曲などバリエーションに富んだラインナップになっています。
このアルバムは、ジミのアルバムの中でもっともセールス的に成功した1枚と言われており、全米チャート1位を獲得しています。

ジミ・ヘンドリックが残したもの

わずか4年、5枚のアルバムを残しただけでこの世を去ってしまった不世出の天才ギタリスト、ジミ・ヘンドリックス。
彼の伝説は生前から始まっていました。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、マイルス・デイヴィス、フランク・ザッパ、ジョン・マクラフリン、ギル・エヴァンス、ピート・タウンゼント、ジャニス・ジョプリンとジミをリスペクトしていたミュージシャンは数知れません。
その後もリアルタイムで接することができなかったにもかかわらず、ジミを尊敬するギタリストは後を絶たないのです。
ジミが現代の音楽会に残した功績はプレイだけではありません。ジミが右用のストラトキャスターをそのまま左に持ち替えて演奏していたことは有名ですが、実は当時、ストラトキャスターを使用するミュージシャンはほとんどいなかったのだそうです。一時は生産中止も考えたとも言われるストラトキャスターがギブソン・レスポールと双璧をなすまでになったのは、ジミの功績が大きかったと言われています。
ちなみに、ウッドストックでジミが使用した1967年製の白いストラトキャスターは、1989年の競売で200万ドルという価格で落札されています。この時の落札者はビル・ゲイツとともにマイクロソフト社を創業したポール・アレンでした。
ジミがこの世を去ってから50年近くなりますが、いまだに生前の未公開音源やリミックス盤などがリリースされ続けています。
生前リリースされた5枚のアルバムを除いても現在までに60枚以上のアルバムが世界中で発売され続けていて、ジミの人気、影響力の高さを物語っています。これからも多くのミュージシャンがジミの遺伝子を受け継いでいくことでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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