アウディ:Four-Ringsの物語 Part2

ドイツの自動車メーカー「AUDI」はブランドとして、さまざまな時代の荒波にもまれながら栄枯盛衰を繰り返してきた。今やMERCEDES BENZやBMWといった同じドイツの強豪たちと肩を並べるほどの、高級車ブランドへと成長を遂げている。一時は、ブランドそのものが消滅してしまったにも関わらず復活を遂げることができた理由は、AUDIの技術たちの不屈の精神そのものだったのかもしれない。その復活劇とともに、Four-Ringsに加わることができなかったもうひとつの輪の物語を、ご紹介しよう。

●AUDIとHORCH。同じ「父」を持つ高級ブランド運命の明暗

1920年代、Audi Automobilwerke GmbHはドイツの街ツヴィッカウで誕生した。創始者の名前は、アウグスト・ホルヒ博士。かつて自らの名を冠した自動車メーカーを立ち上げながら、他の経営陣によって退職を余儀なくされ、改めて自動車作りに挑戦することになったのだった。

ちなみに「AUDI」とは、ラテン語で「聴く」を意味する。ドイツ語の「HORCHEN」も同じ意味。同じひとりの稀代の技術者によって生まれ、そのブランド名にはドイツ語で「Vorsprung durch Technik」、「技術による先進」を意味する哲学が受け継がれた。

このふたつの会社は、やがてひとつの会社になり戦乱の時を経て、一方だけが復活を果たすことになる。

●ひとりのカリスマ経営者によって誕生したFour-Rings

Audi Automobilwerke GmbHがHorch&Cie.Motorwagen Werkeと合併することになったきっかけは、1930年代にヨーロッパから世界へと拡散した世界恐慌だ。どちらも高級車の開発に取り組んできたが、不況の煽りをもろに受けて経営は傾いた。そこに救いの手を差し伸べたのが、DKWというブランド名で人気の自動車メーカー代表、ユルゲン・スカフテ・ラスムッセンだった。

ラスムッセンはわずか4年ほどの間にAUDIとHORCH、さらにはWANDERERというブランドまで統合して巨大な複合自動車メーカー「AUTOUNION AG」を誕生させた。4社はそれぞれに得意なジャンルで商品を開発・製造し、ドイツ国内でも有数の企業へと成長していった。

それは同時に、ドイツの自動車市場において大きなシェアを占めていた米国資本のメーカーに対抗する、急先鋒でもあった。

この時、作られた企業体の象徴が、4つの輪が重なりあうエンブレム「Four-Rings」だ(「フォー・シルバーリングス」とも呼ばれる)。向かって左から、AUDI、DKW、HORCH、WANDERERを表す輪は、それぞれのブランドとしての立ち位置や技術的な交流の密度を、端的に表す形だと思える。

●第二次大戦勃発。AUDI、消滅す。

当時、盛り上がっていたモータースポーツでAUTOUNIONは強豪ブランドとして知られるようになっていく。それはそのまま、市販モデルの高性能なイメージを高めていくことにつながった。しかし順風満帆かと思われた頃に、世界には再び暗雲がたれ込め始めていた。
第二次世界大戦の勃発である。

AUTOUNIONの工場は軍用に徴収され、自動車作りの拠点ではなくなっていく。ほどなくAUTOUNIONの4つのブランドは次々に生産中止を余儀なくされ、AUDIもまたブランドとして一時、姿を消すことになる。

●VOLKSWAGEN AG傘下で始まった復活の胎動

戦後、ドイツの東西分断によって生産・活動拠点の多くは失われたまま。そこでAUTOUNIONは、子会社が活動を続けていたミュンヘンに程近いインゴルシュタットを拠点に、まずはDKW ブランドのオートバイの生産を再開した。

戦後復興期の需要に合わせてトラックなどの生産も始まり、やがてやはりDKW のブランドで、乗用車の再生産もスタートする。戦前に作っていた2ストロークエンジン搭載の大衆車が、人気を博す。AUTOUNIONそのもとしての復興は順調だった。

一方ドイツ国内の自動車市場では、再び米国資本のブランドの注目度が高まっていく。ドイツの自動車メーカーにとって勝ち残るための再編は不可欠だった。AUTOUNIONもまたその新たな荒波に飲み込まれ、まずはDAIMLER−BENZ AGに買収され、やがてVOLKSWAGEN AGの傘下にグループ企業として吸収合併されることになった。

この合併が、結果的にAUDIというブランドを復活させる契機となる。

●高性能な車を象徴するのが、新生AUDIの使命だった。

AUTOUNION AGの屋台骨を支えていたDKWだが、そのイメージの核となっていた2ストロークエンジンは、60年代半ばにはより効率に優れる4ストロークエンジンにとって変わられようとしていた。そのため、親会社のVOLKSWAGEN AGは、より上級でより高性能な自動車のブランド立ち上げを模索し始める。

その動きの中で復活したのが、AUDIだ。AUDIのブランドを冠した車たちは、DKW車のメカニズムをベースとしながら、エンジンを4ストローク化。より先進的なイメージとクオリティの高さで注目を浴びた。

市販されたモデルとしては1965年にお目見えしたAUDI 72が、ブランド復活の第1号。だが、本格的なAUDIとして復活を強くイメージ付けたのは、そのモデルチェンジ版の方だ。車名はAUDI 100。現代に至るまで、このモデルが「AUDI復興の象徴」とされる理由は、その開発と生産までのちょっとしたお家事情にある。

●AUTOUNIONの技術者たちが意地を見せたニューモデル「100」

60年代半ばからVOLKSWAGEN AGは傘下に納めたDKWの活動に制約を加え、とくに新しいモデルの開発に関しては、非常に厳しく管理を徹底していた。当時、AUTOUNION AGが拠点を置いていたインゴルシュタットの生産工場の主役が、ドイツの国民車ともいうべきVOLKSWAGENビートルだったことも、そんな統制が働いた背景と言えるかもしれない。

それはAUDIブランドについても同様で、「新型車」の開発には大変厳しい制約が与えられた。AUDI 72は、毎年のように改良が施されて「80」「90」へと数字が増えていくが、それはあくまで「改良」として親会社が認めたレベルの進化に過ぎない。しかし、そんな状況を、AUTOUNION AGの技術者たちのプライドが許さなかった。

彼らは当時もっともグレードの高い「AUDIスーパー90」を、ボディサイズから拡大、ホイールベースが広げられ、リアサスペンションのメカニズムにも変更が加えられた。広さ、快適さともに、自動車としての進化の伸び代は、ほぼフルモデルチェンジに近い内容だった、と考えていい。

●セールスの成功と、ブランドイメージの確立

1968年デビューしたこの新型モデル「AUDI 100」は、親会社のVOLKSWAGEN AG社内に衝撃を与える。「これはいわゆるニューモデルなのではないか」と。計画は保留とされかけたが開発陣は「あくまでも改良だ」と言い張り、ついに生産を了承させることに成功したのだった。

スタイルこそベースのスーパー90を継承していが、そのたたずまいは遥かに伸びやかで躍動感に溢れている。室内もシンプルなデザインの中に上質感が漂う。あらゆる意味でVOLKSWAGENブランドのクオリティを凌駕したAUDI 100は、AUDI VOLKSWAGEN グループのフラッグシップモデルとしての地位をわずかな間に一気に高め、セールス的にも大成功を納めた。

はじめは4ドアセダンのみの設定だったが、ほどなく2ドアセダン、クーペとバリエーションを拡大していく。いわゆる前輪駆動の大型サルーンとして、確固としたプレミアム感をAUDIがブランドとして手にするきっかけになる記念すべきモデルとなったのである。

●なぜNSUは、4つの輪に加わることができなかったのか?

このAUDI 100がデビューした翌年、AUTOUNION AGに新たな企業が合併されている。ネッカーズルムという工業の盛んな都市で二輪車メーカーとして産声を上げ、20世紀初頭からは四輪車の開発も手掛けていた「NSU Motorenwerke AG」だ。

コンパクトでスポーティな車作りに長けていたNSUブランドの技術もまた、AUTOUNION AGのクルマたちに新たな魅力的な一面を加えることになった。現在もAUDIのスポーツクーペにつけられている「TT」というモデル名はNSUブランドのスポーツカーから受け継がれたものだ。

合併後の社名は「AUDI NSU AUTOUNION AG」。つまりAUTOUNIONのエンブレムであるFour-Ringsは本来、この時に5つの輪になるはずだった。それが4つの輪のままだった理由はなにか。

はっきりとした記録は残されていない。だが、オリンピックの五輪のマークと間違えられてしまうから、というまことしやかな説もあるようだ。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧