リスト:「ピアノの魔術師」と呼ばれた男

(Public Domain /‘Portrait of Franz Liszt’ by Henri Lehmann . Image via WIKIMEDIA COMMONS)

<はじめに>

リスト、と言えば「悪魔に魂を売ったのではないか?」「そもそも本当に人間なのか?」など、その超絶技巧によって19世紀のクラシック音楽界を席巻した伝説のピアニストです。

また、リストはピアニストとしての圧倒的な技量を持っているだけではなく、作曲家としてもこの世に大きな功績を残した音楽家でもあります。例えば、「愛の夢」などはどこかで一度メロディーを聞いたことがあるという方も少なくないのではないでしょうか。

今回はリストがどのような人生を送ってきたのかを紹介しながら、彼がクラシック音楽界にどのような影響を及ぼしたのかについて見ていくことにしましょう。また、彼の残した代表曲についてもご紹介します。

<リストの生涯>

~リストの生い立ち~

フランツ・リストは1811年にハンガリー帝国で生まれました。父は貴族の家系であったために、比較的裕福な生活をしていました。リストの両親はどちらともドイツ人であったため、家庭内ではドイツ語で会話をしていたようです。そのため、リストはハンガリー人でありながら、ハンガリー語を話すことができなかったと言います。

リストは幼いころから父親によってピアノの練習を重ねる毎日を送っていました。そのかいあってか、10歳になるのを待たずして、公開演奏会も行っていたようです。まさに「天才少年」としての名をほしいままにしていたと言ってよいでしょう。

またリストが12歳で後悔演奏会を行ったときには、あのベートーヴェンと対面し、そのたぐいまれなる才能を絶賛されたようです。12歳の少年にとって、当時の大家であるベートーヴェンからの賞賛と激励は大きなモチベーションになったに違いありません。

~人間を超越した演奏技術~

リストはその後もさらなる高みを目指すべく、練習を積み重ね、その超絶技巧に磨きをかけました。猛練習の甲斐あって、リストはほどなくして、当時のクラシック音楽界でもセンセーショナルな存在となりました。

演奏会でも立ち見の客が大量に出てしまいコンサートホールに人が収まりきらなくなることも日常茶飯事であったと言います。当時は演奏家としてアイドル的な人気を誇っていたようです。

民衆の熱狂ぶりが尋常でなかったということを裏づけるエピソードというのはいくつも残されています。例えば、当時はリストが入った後の浴槽のお湯が競売にかけられるといったようなこともあったようです。

普通であれば「気持ち悪い」と感じてしまうに違いないような行動なのですが、当時の民衆はリストが人間を超越した存在であることを信じて疑わなかったようです。そのため、リストが触れたものはすべて神聖なものであるという考えが浸透していたのです。

また、演奏家としてのリストがここまで熱狂的な人気を博したのには当時のリストが当代きってのパフォーマーであったということも挙げられるようです。

当時のリストの演奏会では演奏中に弦が切れる、ハンマーが切れるなど、ピアノが故障してしまうことが度々あったようです。リストの演奏技術は正確無比であるだけでなく、大変力強いものであったということが伺えます。

ところで、当時のリストの演奏の様子を収めた絵は現在でもたくさん残っているのですが、その中には一つ特徴が見られます。それはどの絵においても鍵盤を見ずに演奏しているということです。

ピアニストは特に難しい曲である場合ほど、慎重を期して鍵盤を見ながら弾くのが一般的です。しかしながらリストは圧倒的な技術を存分に見せつけるために即興演奏を行うことも多く、自分の世界に没頭するあまり、鍵盤を見ない演奏スタイルがいつの間にか自然なものとなっていたようです。

ちなみにリストの残した曲というのは何冊もの曲集に収められて出版されていますが、実際のところ、リスト自身が自らの残した楽譜通りに演奏することはほとんどなかったと言われているようです。

リストは演奏会毎に自分で作曲した曲にさらに即興でアレンジを加えることによって、観衆を楽しませ、また、そのようにすることで自分の技量を試して楽しんでいたようです。まさに異次元の演奏家であったということができるでしょう。

~パガニーニからの影響~

さて、「ピアノの魔術師」と呼ばれ、一世を風靡する伝説的ピアニストとして大きな成功を収めていたリストですが、20歳の時、彼にとって生涯忘れることのできない大きなイベントが起こります。それがパガニーニとの出会いです。

パガニーニと言えば、現在でもなお「史上最高のヴァイオリニスト」との呼び声高く、超人的な技巧を売りに多くのファンを獲得していたヴァイオリニストです。まさにヴァイオリン界のリストであったと言ってよいでしょう。活躍していた時期もリストと完全に重なっているために、まさしくリストの「ライバル」と言えるべき存在だったのです。

あるとき、リストは自らパガニーニの演奏会に足を運びました。そして、パガニーニの演奏のすばらしさに感動するとともに、自身の現状のレベルではまだパガニーニの足元にも及ばないと感じたようです。

当時のリストはピアニストとしてこれ以上にないくらいの成功を収めていたため、おそらくリスト自身にもクラシック音楽界をリードするスターとしての自覚はあったことでしょう。しかしながら、このように自分よりもさらに上がいるのだということを謙虚に受け入れる姿勢も持ち合わせているからこそ、さらなる高みを目指して努力を重ねることができたのです。

パがニーニに触発されたリストはその後しばらく演奏会などの表舞台から姿を消し、ピアノに向かって猛練習する日々を送ったようです。また、パガニーニに受けた影響というのは彼の残した楽曲にも見出すことができます。

リストは「パガニーニによる大練習曲」、「パガニーニによる超絶技巧練習曲」といったような曲集も残しています。これらはパガニーニの残した「24の奇想曲」、「ヴァイオリン協奏曲」といった曲のメロディーを用いてリストがアレンジした曲です。

このようなあたりからも、リストがパガニーニのことを単なるライバルとしてだけでなく、敬愛の対象としていたということが伺えるのではないでしょうか。パガニーニはまさにリストの人生を語る上で欠かすことのできない存在なのです。

(Public Domain /‘Fryderyk Franciszek Chopin’ by Maria Wodzińska . Image via WIKIMEDIA COMMONS)

~ショパンとの交流~

またリストはパガニーニだけではなく、ショパンとも交流があったようです。リストとショパンもまた全く同時代を生きた音楽家であったために、やはりめぐり合う運命にあったということなのでしょう。

ショパンはサロンと呼ばれる貴族や芸術家が集う場所でコンサートを行うことを好んでいました。リストとショパンもこのサロンでの交流を通して中を深めていったようです。

他を寄せ付けない演奏技術で名声を確立したリストに対して、ショパンは自らの作曲した独自の感性が垣間見える楽曲によってその名声を確立した人です。したがって、リストとショパンはお互いにお互いが持っていないものを持っている存在であったということができます。

~リストの恋愛事情~

さて、稀代のピアニストとして、アイドル的な人気を誇ったリストですが、当然ながら女性ファンもたくさんいたようです。実際多くの女性と関係を結んでいたという言い伝えがあります。

最初にリストの人生に大きな影響を及ぼしたのが、マリー・ダグー伯爵夫人との恋愛が挙げられます。彼女とは10年もの同棲生活を送ったようです。

リストはマリーと3人の子供を設けました。ちなみに、その中の一人であるコジマはのちにあのワーグナーの妻となった女性でもあります。やはりリストの遺伝子を継いでいるというだけあって音楽的な才能にも恵まれていたようです。

そして、マリーと別れた後にリストに寄り添った女性がカロリーネです。彼女は大地主であり、相当な大富豪であったと言われています。しかし、カロリーネとは結婚をすることができなかったようです。これには宗教上の問題、そして相続の問題など複雑な事情が絡んでいたと言われています。

リストとカロリーネの関係は特に大きな危機もないまま、リストの晩年にまで渡って続きました。リストは晩年になっても、カロリーネと会うことができない時には近況報告を綴った手紙を出すなどもしていたようです。

このようなエピソードからも、いかにリストとカロリーネが深い絆で結ばれていたかということが伺えるのではないでしょうか。

~リストの出家~

かつては名ピアニストとしてその名をヨーロッパに轟かせたリストでしたが、40代に差し掛かる頃、ヴァイマルから宮廷楽長のオファーを受けることとなります。恋人カロリーネにその座につくことをプッシュされたこともあり、リストは約10年にわたって宮廷音楽を取り仕切ったようです。

そして、リストは宮廷楽長の責務を終えた後、次第にキリスト教に目覚めていったようです。その原因は定かではないのですが、やはり寄る年波には勝てず、ピアニストとしての仕事に対しては年を重ねるにつれて消極的になっていったようです。そのため、今まで関心を向けることのなかった分野にも興味を持つようになったということなのでしょう。

そしてリストはローマに移住して4年間を過ごしたのち、55歳の時に出家を決意します。この時のリストのキリスト教における地位はもっとも低いものであったために、恋愛や婚姻といったプライベートに関する制限はなかったようです。

リストのキリスト教への関心による考え方や価値観の変化は晩年にリストが残したピアノ曲にも見て取ることができます。特に「エステ荘の噴水」という作品は今までの技術偏重の作風から一転、噴水から吹き出る水がきらめくのを見事に表現した作品として有名です。

この「エステ荘の噴水」という曲はクラシック音楽がロマン派から次のステージへと移行していく過程において非常に大きな意味を持つ作品です。例えば、ドビュッシーの「水の反映」、ラヴェルの「水の戯れ」といったような曲はいずれもこの「エステ荘の噴水」の影響を垣間見ることができます。

(Public Domain /‘Liszt and his students’ by Louis Held . Image via WIKIMEDIA COMMONS)

~教育者としてのリスト~

リストは一般的に超人的な技術を持ったピアニスト、作曲家として有名ですが、それだけではなく、後世を育てるための教育者としての活動も行なっていました。芸術家の指導というのは特に著名になればなるほど、高額の費用がかかるのが一般的です。しかしながらリストは全てのレッスンを無料で行なっていたようです。

この背景にはリスト自身の指導者であるカール・ツェルニーがレッスン料の支払いに対して非常に厳格であったということも少なからず関係していると言われています。ツェルニーはどれほど優秀な生徒であっても、レッスン料の支払いができない場合には、指導を打ち切っていたようです。

リスト自身は裕福な生まれであったためにレッスンを受けることができましたが、才能に溢れる生徒がお金を理由に去っていく姿は見ていて辛いものだったのです。リスト自身が名ピアニストだったこともあり、弟子は指導者としてのリストを絶賛して止まなかったようです。

<リストの代表曲>

さて、ここまでリストの障害について見てきましたが、次はリストの残した楽曲について見ていくことにしましょう。

〜「ラ・カンパネラ」〜

ラ・カンパネラはリストが残した難曲の一つで、鐘が鳴る様子を表現した曲です。盲目のピアニストとして世界的に有名な辻井伸行さんがヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した際に演奏した曲でもあります。

〜「愛の夢」〜

「愛の夢」はリストが残した曲の中でも最もポピュラーな一曲であるということができるでしょう。まるでショパンが書いたのではないかと錯覚してしまうほど叙情的な一曲です。浅田真央選手が世界選手権において、SPの世界最高得点をマークした時の曲でもあります。

<終わりに>

さて、今回はリストについてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。リストはショパンやパガニーニといった他の偉大な音楽家と刺激し合いながら、名ピアニスト、作曲家としてクラシック音楽の歴史に大きな足跡を残しました。

現在では彼の演奏を直接聞くことはできませんが、彼の残した楽曲を聴きながら、彼が実際どのような様子で演奏していたのかを想像してみると、興味深いのではないでしょうか。

出典(Wikipedia):フランツ・リスト

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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