メンデルスゾーン:「ロマン派のモーツァルト」

(Public Domain /‘The Portrait of Felix Mendelssohn’ by James Warren Childe . Image via WIKIMEDIA COMMONS)

<はじめに>

クラシック音楽においてロマン派の時代と言えば、ショパンやリスト、シューマン、ブラームスなど多くの才能がひしめいていた花形の時代です。そんな時代に、「モーツァルトの再来」とも呼ばれた音楽家がいました。そんな彼の名前はフェリックス・メンデルスゾーンです。

<メンデルスゾーンの生涯>

~神童と呼ばれた少年時代~

フェリックス・メンデルスゾーンは1809年2月3日にドイツのハンブルクで生まれました。メンデルスゾーンの父アブラハムは銀行家をしていたため、メンデルスゾーン一家は大変裕福な生活を送ることができたようです。

ここで、ドイツ人なのにもかかわらず、父の名前が「アブラハム」と少しイスラムの香りがする名前であることに対して違和感を感じる方もいるのではないでしょうか。実はこれはメンデルスゾーンの父方はユダヤ系にルーツを持っていたことに起因します。

それでも父アブラハムは子供たちがユダヤの意識を持つことに対して否定的だったようです。何を信じるかに関しては、各々の考えに任せたいという考えがあったのでしょう。結果的にメンデルスゾーンは、自らがユダヤの生まれであるという現実も受け入れつつキリスト教を信仰することとなります。

メンデルスゾーンは4人兄弟に生まれ、姉のファニーとともに物心ついたころから音楽教育を受けていました。意外なことに、当初はメンデルスゾーンよりも姉であるファニーの方が音楽的な才能に恵まれていると目されていたようです。

しかしながら、父アブラハムは女性が音楽家になることに対しては否定的で、あくまで趣味として嗜むレベルに留めるべきだと考えていたようで、ファニーは結局プロの音楽家になることはありませんでした。

一方のメンデルスゾーンは音楽への関心が非常に強く、父アブラハムは彼が音楽の道に進むことに対してあまり乗り気ではなかったものの、メンデルスゾーンの気概には根負けしたようです。

メンデルスゾーンは6歳でピアノを習い始め、早くも神童としての実力を見せつけ始めます。9歳の時にはすでに公開演奏会を開いていたようです。また、ピアノの手ほどきを受け始めた直後から、室内楽曲を中心に自ら作曲もしていた記録が残っています。

メンデルスゾーンが子供の頃に作曲した曲は、年齢を感じさせないクオリティーを誇っており、実際に管弦楽団によって演奏されることも少なくなかったようです。早くからその作曲能力を高く評価されていたことの表れであるということができるでしょう。

また、幼少期から類稀な才能を見せつけていたメンデルスゾーンは自らの師であるツェルターという人物を介してあのゲーテとも接見していた記録が残っています。メンデルスゾーン少年はゲーテの目の前で見事な即興演奏を披露したようです。

これに衝撃を受けたゲーテは思わずツェルターに「君の生徒が既にやっていることを当時のモーツァルトに聴かせるのだとしたら、それは大人の教養ある話を幼児言葉の子どもに聞かせるようなものだよ。」という言葉を送ったと言われています。まさに規格外の才能だったのでしょう。

先ほども述べた通り、メンデルスゾーン一家は大変裕福な家庭でした。そのため、メンデルスゾーンは音楽以外にも美術、文学、哲学、語学などにおいてもハイレベルな教育を受けていたようです。この豊富な知見も彼の音楽家としての成功に大きく寄与したということができるでしょう。

メンデルスソーンはこれらの多岐にわたる才能が認められ、17歳の時にはベルリン大学への入学を許可され、音楽とは直接的には関係のない美術や地理、歴史についての教養を深めていきました。このように音楽以外の分野への造詣も深かった点は他の偉大な音楽家とは一線を画する点であると言えます。

~バッハ作品復興で一躍脚光を浴びる~

音楽はもちろん、それ以外の分野においても高い能力を発揮し、神童の名をほしいままにしたメンデルスゾーンですが、20歳の時、その才能がついに世に知れ渡るイベントが起こります。それが、バッハ作品の復興計画です。

バッハは現在では偉大なバロック派の音楽家として知られていますが、当時は既にロマン派の音楽が主流となっており、忘れ去られつつある音楽家となっていました。しかしながら、メンデルスゾーンはバッハの楽曲には再発見すべき魅力が沢山あると感じていたようです。

メンデルスゾーンは「マタイ受難曲」という今までスポットライトの当たることのなかったバッハの作品をアレンジした曲を作曲します。そして、その曲が始めて披露されると、すぐに大きなセンセーションを引き起こしました。

当然、作曲したメンデルスゾーンに関しても、「ユダヤ人が偉大なキリスト教音楽家を復興させた!」と大きな話題となりました。このようにして、メンデルスゾーンは20歳にしてその名を轟かせることとなるのです。

そして、大きな成功を収めたメンデルスゾーンはその後数年にわたってヨーロッパ中を巡る演奏旅行へと出かけます。この際メンデルスゾーンは多くの音楽家と出会い、貴重な経験をたくさん積むことができたようです。

~イギリスでも活動を始める~

演奏旅行から帰ってきたメンデルスゾーンはその後、 それまでの業績を認められて、デュッセルドルフの音楽監督に就任します。メンデルスゾーンはデュッセルドルフでヘンデルの楽曲を再興させるなど、一定の成果を残していきました。

しかしながら、コンサートのチケット代に関してのトラブルに見舞われたり、日々の雑用を煩わしいと感じたりと、決してメンデルスゾーン自身が満足できるような職であるとは言えないのもまた事実でした。

結果的にメンデルスゾーンはデュッセルドルフの音楽監督の座を2年で辞任することとなります。一方、この時期メンデルスゾーンは音楽監督の仕事と並行して、イギリスでも仕事を行っていました。

当時のロンドンには偶然、かつてメンデルスゾーンを指導していたモシュレスが住んでいました。メンデルスゾーンは彼のコネを使って、ロンドンでいくつものコンサートで指揮者として登壇したようです。

彼の実力は次第に認められるようになり、あのヴィクトリア女王と謁見したという記録が残っています。ロンドンではメンデルスゾーンの熱烈なファンも一定数いたとされています。

また、彼は指揮者として活動する以外に、かつてバッハやヘンデルの作品の復興に貢献した経験を生かして、彼らの作品の決定版を編纂するなど、あるコンサートではベートーヴェンのピアノ協奏曲においてソリストを務めるなど、幅広く活動していたようです。

~セシルとの結婚~

メンデルスゾーンは順風満帆なキャリアを送っていた20代後半に、プロテスタントの聖職者の娘であるセシルと結婚します。メンデルスゾーンは生涯を通じて5人の子宝に恵まれることとなります。子供達には自身の経験も踏まえて、様々な経験をさせようと努めたようです。

その甲斐あってか、メンデルスゾーンの子供の中には後に大学教授になったり、科学者になったりと活躍するものもいました。幅広い才能を持っていたのはまさに父親譲りであったということができるでしょう。

~キャリアの全盛期~

メンデルスゾーンはロンドンでの活動などが認められ、30代半ばを過ぎたころ、ライプツィヒの管弦楽団の指揮者のオファーを受けることとなります。この楽団は大変伝統的な楽団であり、メンデルスゾーンにとってこれは大変な名誉でした。

しかしながら、メンデルスゾーン同時期にミュンヘンのオペラハウスの音楽監督、音楽雑誌の編集長のオファーも受けていました。大変ぜいたくな悩みであったということができるでしょう。

結果的にメンデルスゾーンは迷ったあげく、ライプツィヒの管弦楽団の指揮者の座を引き受けることとなります。メンデルスゾーンは大変大きな地位を手にし、管弦楽団の指揮者としてだけでなく、市内の少年合唱団の指導、オペラの指導など、ライプツィヒの音楽全体を取り仕切っていたも同然だったようです。

また、メンデルスゾーンの知名度を利用しようと、当時彼のもとには多くの若手音楽家から出演の依頼や、自らの作品を取り上げて欲しいといったような依頼が殺到したようです。「楽劇王」として知られるワーグナーもその一人であったようです。

しかしながら、このときは何らかのトラブルがあったようで、結局ワーグナーの作品を取り上げることはなかったようです。

そしてこの時代、メンデルスゾーンは当時彼の最高傑作であると言われた作品を生み出します。それが「聖パウロ」です。この曲の初演の前日にはメンデルスゾーンの父が他界しており、それを乗り越えての初演は大変大きな感動を生んだようです。

また、当時のメンデルスゾーンの影響力の大きさを感じさせるエピソードとして、当時のプロイセン王国のフリードリヒ4世が、ベルリンを文化的な中軸に据えたいと考えており、メンデルスゾーンに音楽に関して中心的な役割を担って欲しいと頼み込んだということがあります。

しかしながら、メンデルスゾーンは当時ライプツィヒでの仕事で多忙を極めており、それに充実感を得ることが出ていたため、プロジェクトに対してそれほど関心がなかったようです。それでも時々ベルリンに赴いてはシェイクスピアの「夏の夜の夢」をはじめとした歌劇作品の作曲をしたりしていたようです。

そして、メンデルスゾーンのもう一つの大きな仕事が音楽学校の設立です。メンデルスゾーンはヨーゼフ・ヨアヒムをはじめとした当時の名だたる音楽家達を呼び集め、自らが理想として掲げる音楽教育の実現を目指しました。メンデルスゾーンは30代半ばながらも自ら学長の座に就くこととなります。

~メンデルスゾーンの最後~

音楽家として若くしてあまりにも大きな成功を収めたメンデルスゾーンですが、彼に残された人生というのはそう長くありませんでした。メンデルスゾーンは晩年、原因が分からないまま次第に身体をむしばまれていくこととなります。

そして、さらにメンデルスゾーンに追い打ちをかけることとなったのが、姉のファニーの死でした。メンデルスゾーンは幼少期から音楽家を目指すにあたって、ファニーから学んだことが沢山ありました。そのため、彼女の急な死というのはメンデルスゾーンに非常に重くのしかかったようです。

メンデルスゾーンは彼女の死からほどなくして、この世を去ることとなります。36歳の時のことでした。死因はくも膜下出血であったと言われています。

<メンデルスゾーンの代表曲>

~「無言歌集」~

メンデルスゾーンは生涯にわたって歌劇の作曲を数多くこなしましたが、この曲はピアノ曲ながらも、まるで歌が存在しているかのような物語性に満ち溢れた作品となっています。

~「ヴァイオリン協奏曲」~

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は通称「メンコン」と呼ばれ、3大ヴァイオリン協奏曲として親しまれています。第1楽章冒頭のメロディーは聞いたことがあるという方も少なくないのではないでしょうか。

~「結婚行進曲」~

よくBGMとしても用いられるので聞いたことがあるという人は多いのではないでしょうか。実はあの曲、「夏の夜の夢」というシェイクスピアの歌劇に登場する曲で、メンデルスゾーンが作曲したものです。最初に作曲されたときはピアノの連弾曲として作られたようです。

~弦楽八重奏曲~

これはメンデルスゾーンがわずか16歳にしてかき上げた室内楽作品です。メンデルスゾーンは作曲の練習として書いた曲なのですが、聞いてみるとその完成度の高さに驚くのではないでしょうか。彼の早熟ぶりがもっとも顕著に感じられる作品です。

<おわりに>

さて、今回は早熟の天才メンデルスゾーンについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか。メンデルスゾーンはあのモーツァルトと比較される才能の持ち主で、クラシック音楽の歴史に大きな歴史を残しましたが、その一方でその死というのはあまりにも早すぎるものでした。「もしももっと長く生きていたら……。」と思わずにはいられないでしょう。

メンデルスゾーンはロマン派の作曲家の中でも、かなり広いジャンルに挑戦した作曲家の一人です。今回ご紹介した曲以外の曲も調べて聞き比べてみると、メンデルスゾーンの様々な顔を見ることができるのではないでしょうか。

出典(Wikipedia):フェリックス・メンデルスゾーン

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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