ブラームス:シューマンも認めた「若き鷲」

(Public Domain /‘Johannes Brahms’ by C. Brasch, Berlin . Image via WIKIMEDIA COMMONS)

<はじめに>

ブラームスという音楽家をご存知でしょうか。鋭い眼光をしている肖像画で有名なので、ひょっとすると音楽室の写真で見覚えがあるという方もいらっしゃるかもしれません。そんなブラームスですが、実はロマン派の花形作曲家であるシューマンも認める才能の持ち主でした。

今回はブラームスとはいったいどのような人物だったのか、そして、彼の残した代表曲についてもご紹介していくことにいたします。シューマンとの親交についても見ていきます。

<ブラームスの生涯>

~生い立ち~

ブラームスは1831年5月7日にハンブルクでその生を授かりました。ちなみにこの年はリスト、ショパン、シューマンが生まれてからおよそ20年後でもあります。まさに、ロマン派音楽家が最盛期を迎えようとしている時代に生まれたのがブラームスなのです。

ブラームスは7歳の頃からピアノの練習をはじめたようです。これは他の音楽家に比べるとやや遅いということができるでしょう。しかしながら、ブラームスはピアノの演奏においてすぐにその才能を発揮し、10歳の時には初めてステージにも立ったようです。

この演奏会の企画人はブラームスの才能にほれ込み、彼にアメリカに演奏旅行に行くことを勧めるほどの大盛況だったようです。ブラームスの両親もその才能を開花させるためには絶好の機会だととらえ、これに賛成したようなのですが、その一方で彼の師であるコッセルはこれに反対し、結果的に渡米計画は立ち消えに終わってしまいます。

~作曲に専念することを決意~

ブラームスはその後も別の教育者に師事し、さらにその演奏技術を高めていくのですが、その一方で、残念ながらブラームスのピアニストとしての技量は決してトップに君臨できるようなレベルではなかったようです。当時はリストを始め、特に名演奏家に恵まれており、ブラームスほどの才能でさえも霞んでしまうような時代だったのです。

ブラームス自身もそのことを漠然と自覚していたようで、10代にして演奏家としての人生を送ることは半ばあきらめていたと言われています。しかし、ピアニストとしての活動を完全にやめたわけではなく、その後も自ら作曲した曲の初演を自分の手で演奏することは度々あったようです。

ブラームスはもともと完璧主義の性格が強く、作曲家としての人生を送ると決めたあとも、なかなか自身で満足のいくような作品を制作することができず、10代のころに作曲した作品のほとんどは暖炉で燃やされてしまったために現存していないようです。

~ブラームスの苦悩と大きな出会い~

作曲家としての人生に苦心していたブラームスですが、ある人物との出会いによって大きなヒントを得ることとなります。それがハンガリーの名ヴァイオリニスト、レメーニとの出会いです。

ブラームスはレメーニとすぐに打ち解け、共に演奏旅行に出かけました。そして、その折に触れたジプシー音楽が彼のインスピレーションを大いに刺激したと言われています。ジプシーとはヨーロッパに散在している放浪の民のことを指します。

「ジプシーダンス」と呼ばれる伝統的な舞踊で大変有名な民族であり、ジプシーの音楽に影響を受けた音楽家はブラームス意外にもたくさん知られています。また、レメーニとの出会いでもう一つの重要な出会いに恵まれます。それが、ヨーゼフ・ヨアヒムとの出会いです。

ヨーゼフ・ヨアヒムもまたハンガリー出身の音楽家であり、当時は著名なヴァイオリニストとして活躍していました。数は少ないもののヴァイオリン曲もいくつか残しています。また、シューマンやクララ・ヴィーク(後のクララ・シューマン)との親交で知られている音楽家でもあります。

この後でご紹介するブラームスの代表曲である「ヴァイオリン協奏曲」もこのヨアヒムの助言を受けながら完成した曲です。まさに、ブラームスの生涯に欠かすことのできない人物であるということができるでしょう。

~シューマン夫妻との出会い~

また、ブラームスはヨアヒムを介して、シューマンとも出会うことを勧められます。シューマンと言えば、当時のロマン派音楽界をけん引していた存在であり、ブラームスにとっては思いがけない出会いであったということができるでしょう。

シューマンはブラームスと出会うや否やその才能を確信したようで、自ら出版していた音楽評論雑誌である「新音楽時報」でもブラームスのことを「若き鷲」と特集するなど、次世代の音楽家として絶賛していた様子がうかがえます。また、ブラームス自身もシューマンのことを敬愛して 止まなかったようです。

20歳近い年齢差がある二人ですが、相当に強い絆で結ばれていたのです。シューマンは30歳を過ぎてクララと結婚したのちに、精神障害に悩まされるようになり、療養施設で過ごす日々が続きます。それを聞いたブラームスはなんとかシューマンを励まそうとすぐにシューマンのもとに駆けつけたようです。

ブラームスはシューマンを援助するため、生活費の一部を負担したり、家事を手伝ったりと大変懸命にサポートしたようです。また、この際にシューマンの妻であるクララとも大変仲良くなりました。ブラームス自身、クララのことを手紙の中で「君」と呼んでいた記録が残っています。

一説にはシューマンが精神的に病んでいる中でブラームスはクララと愛人関係にあったという話もあるようですが、事実であったのかどうかはいまだに不明とされているようです。ブラームスはシューマンの死後もクララとの親交はあったものの、結婚をすることはついにありませんでした。

シューマンに対して大変大きな敬意を抱いていたブラームスですので、おそらくそのような関係にはなかったのではないでしょうか。

ちなみにブラームスの恋愛事情に関しては、シューマンの死後にあのシーボルトの親戚と婚約することとなります。しかしながら、結局結婚が認められない運びとなり、ブラームスは生涯を独身で過ごす運びとなります。

~ウィーンでの活動~

ブラームスはシューマンの死後しばらくしてから、作曲活動の拠点を音楽の都ウィーンに移します。ウィーンは多くの音楽家達が集う聖地であり、ブラームス自身、この地で仕事をするのをずっと夢見ていたようです。

作曲活動をするにあたって最適な環境を手に入れたブラームスはこの時期に多くの名曲を残すこととなります。まず高い評価を得たのが「ドイツ・レクイエム」という作品です。生と死について巧みに表現したこの曲はウィーンの他の偉大な音楽家達をも唸らせたようです。

「ドイツ・レクイエム」で勢いに乗ったブラームスは次いで、自身の代表曲である「交響曲第10番」を発表します。当時の偉大な指揮者をして「まるでベートーヴェンの交響曲第10番のようだ」と言わしめたようです。(ちなみにベートーヴェンの交響曲は全部で9つしかありません。)

交響曲第1番で大成功を収めたブラームスはその後もウィーン滞在中に3つの交響曲を残しました。

~イタリアでの活動~

また、ブラームスは40代の終わりから50代の始めにかけて、ウィーンを離れ少し気分転換をするために度々イタリアを訪れるようになります。ブラームスの代表曲である「ハンガリー舞曲」もこの時期に作曲されました。

しかしながら、イタリアでは充実した日々を送った一方でブラームス自身、作曲に対するモチベーションが次第に低下していってしまったようです。自らの作品が高い評価を受けることには満足する反面、音楽を離れ、新しい生活を始めたいと考えるようになります。

作曲家としてのキャリアを引退することを決意し、遺書まで準備したブラームスでしたが、やはり音楽に対する情熱の炎はそう簡単に消えるものではなかったようです。

ブラームスは結局1年もたたずに引退宣言を撤回し、晩年もクラリネットを主役とした作品やピアノ曲などにおいて数々の傑作を生みだしました。

~ブラームスの最後~

ブラームスは晩年まで創作活動を積極的に続けていましたが、1896年、最愛の友人であるクララが亡くなります。彼女の死に対してブラームスはひどくショックを受けます。40年以上にわたる親交があったため、その傷は簡単に癒えることはなかったようです。

そして、クララの死後、ブラームスの体調も急激に悪化していきました。そして、クララの後を追うようにして1897年、ブラームスの生涯は幕を閉じました。死因ははっきりとしていないようです。

<ブラームスの人物像>

当時のクラシック音楽界でも、ブラームスはかなり気難しい性格で有名だったようです。ブラームスはシューマンに似て子供好きで、子供に出会うと一緒に遊んだり、お菓子をあげたりしていた反面、基本的に大人に対しては冷たい態度を取ってしまっていたようです。

ブラームス自身、大人のことを嫌っていたというわけではなかったようなのですが、自分の考えや気持ちを人前で表現することが大変苦手だったのです。

また、数々の名曲を残しながらも、自身が偉大な音楽家としてショパンやシューマンなどと同列に扱われることをひどく嫌っていたようです。あまり自分に自信がない性格であったことが伺えます。

自己肯定感が低い人柄であったために、ブラームスが作曲した作品は世に出されることなく燃やされてしまったものも少なくないようです。しかしながら、それらを謙虚な性格の表れであると見ることもできます。

ブラームスは安定して成功を収めていたために、相当の報酬を得ていたようです。巨額の富を手に入れても、ブラームスは小さなアパートに住み、質素な生活をつづけました。そして、できる限り多くのお金を後進の育成に充てたいと考えていたようです。

気難しい性格ゆえ、なかなか打ち解けるのが難しい人物であった反面、度々衝突したワーグナーやブルックナーとは時間をかけて進行を築いていったことからも見られるとおり、心を許した相手に対してはひたむきに接する人物であったことが伺えます。

ブラームスの作品を聞くときは、このようなシャイで謙虚なブラームスの一面も想像しながら聞いて見ると興味深いのではないでしょうか。

<ブラームスの残した代表曲>

~「交響曲第1番」~

ブラ―ムスの残したオーケストラの曲として、最も有名なのが、この「交響曲1番」です。この曲の構想は、ブラームスが作曲家として活動し始めてから間もないころから始まっていたようで、発表までにおよそ20年の歳月を要したと言われています。

特に第4楽章のメロディーはたまにBGMとして用いられることがあるので、聞いたことがあるという方も少なくないのではないでしょうか。

~「2つのラプソディー」~

ブラームスの作曲したピアノ曲の中でも、そのドラマティックさで人気を博しているのがこの「2つのラプソディー」です。ラプソディーというのは「狂詩曲」という意味です。第1曲は何かショッキングな出来事があったことを想起させるような悲痛で陰鬱なメロディーが特徴的です。そして、第2曲はそれを乗り越えていくような力強いメロディーが印象的です。

~「ヴァイオリン協奏曲」~

この曲はチャイコフスキー、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲と並んで3大ヴァイオリン協奏曲に数える声もあるなど大変有名なヴァイオリン協奏曲の一つです。落ち着いた中にも感情のうごめきが感じられる、いかにもブラームスらしい作品であるということができるのではないでしょうか。

~「ハンガリー舞曲」~

ブラームスの残したオーケストラの作品として、「交響曲第1番」と並んで有名なのがこの「ハンガリー舞曲」です。ブラームスはレメーニ、ヨアヒムといったハンガリー生まれの作曲家との親交が深かったため、ハンガリーに対して非常に興味を持っていたようです。

この作品はハンガリーの伝統的な舞踊をモチーフにした曲集となっています。耳にしたことのある作品も少なくないのではないでしょうか。

~終わりに~

さて、今回はブラームスについてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。ブラームスは他のロマン派の作曲家に比べて地味な印象を抱く人も少なくないようですが、シューマンにも認められた才能の持ち主であったということが伺えます。

ぜひ、ブラームスの作品とシューマンの作品を聴き比べ、ブラームスがシューマンからどのようなインスピレーションを受けたのか、想像してみてはいかがでしょうか。

出典:Wikipedia ヨハネス・ブラームス

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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